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1. イタリアとそれを取り巻く地中海世界

<イタリアとそれを取り巻く地中海世界>

イタリアを語ることは、同時に周辺を取りまく海洋とのつながりを抜きにしては考えられない。日本と同様に南北に長いこの国は、現在の交通事情からすれば大半の場所から1時間そこそこで海洋に出られるのである。トレンティーノやアオスタなどの海洋から遠い場所ですら高速道路で2時間も走れば海岸線に達する。

イタリアはかつて諸侯が割拠し、それぞれに独自の文化を持つ都市国家を形成していた。当時はたとえ現在の全国を網羅するような道路はあったとしても安易に各都市間を往来することは、政治的思惑もあって困難であった。そのような時代にあっては、海洋を通じて交易を外に求めることが自然の成り行きだったのである。

東のヴェニスがコルフ島やクレタ島を足がかりに遠くイスタンブールまで勢力を伸ばし、西のジェノヴァは地中海の制海権をめぐってヴェニスと覇を競った。ピサやアマルフィ王国はシチリアを経由して現在のチュニジアすなわちカルタゴや、エジプトのアレキサンドリアなどと頻繁に交易を行い、南のブリンディシは十字軍遠征の拠点として栄えた。

一方で、シチリアには当時のアテネ(ギリシャ)を凌ぐといわれたシラクーザの植民地があり、サルデーニャはギリシャの他にも長い間スペインの植民地に甘んじなければならなかった。ナポリもまたそうである。サルデーニャ島の中心都市カリアリから50キロ足らずの場所にはプーラ又はノーラとよばれるローマ時代の遺跡も立派に残っており、そこに佇めば否応無しに往時がしのばれる。島の北側に位置する古都アルゲーロの町では今でもカタラン(スペインのカタロニア語)が通用する。

このようなことを述べるのは、現在のイタリアについて考える時、かつて各地に割拠した都市国家がそれぞれの交易ルートの違いによって独特の文化を発展させ、それが今日に及んでいるのではないかと考えるからである。言うなれば、ヴェニスによるイスタンブール進出、スペインのナポリ征服、ヴァイキング族のノルマンディー侵略、神聖ローマ帝国のドイツ・ゲルマン族によるシチリア支配などを含めて多くの国々との往来が国の文化の形成に大きな影響を及ぼし、今日に至ってもそれぞれの地方色に顕著に反映されているように思われる。

長い歴史の間に培われた習慣などは、地域ごとに独自性の高い個性的文化を形成し、当然、食生活にもダイレクトに反映され、独自の食文化を形成してきた。長い間慣れ親しんだ習慣や過去の歴史は、それぞれの郷土愛を育んできた。良かれ悪しかれ、自分達の先祖の足跡については誰しもが肯定的に感ずるだろう。それぞれ誇りを持つのは当然である。郷土愛こそがすべての価値観の前におかれるものだと信じる。不合理な部分があったとしてもそれをうんぬんする事は出来ない。

イタリアの都市国家の性格はこれらの要素によって決定づけられ、国家のみならず、それぞれの地域社会や家庭の性格の形成に計り知れない影響を与えた。イタリアにはイタリア料理といわれる料理はないと言われる所以は、それぞれの地域の特性を生かした郷土料理が無数にあるからであろう。イタリア人がサッカーに熱狂するのもそれぞれの地域対抗の性格が反映されているからに他ならない。言うなれば、各家庭のマンマ(母)の料理を自慢すると同じで、それぞれの地域に誇りを持つ者が、他者に負けるものか、また負けてはならないとする深層心理が反映されるからだと思うのだが、如何なものであろうか。

さて、イタリアを取りまく地中海世界から紹介しよう。とりあえずイタリア本土、そしてシチリア、サルデーニャについて述べ、次にイタリアに影響を及ぼしたスペインやカルタゴ、トルコ、エジプトなど周辺諸国について旅行の印象を通して述べる。さらに、イタリアとその周辺諸国との交流によって、相互間にどのような文化的影響が残されたかについて若干触れてみたい。また、これらの地域を旅行するにあたって交通機関の状況やドライブ旅行をする際に必要な情報についても、小生の体験を述べながらお知らせしよう。


<イタリアの南北の地域性>

ご存知のようにイタリアは南北に細長く、また東西は背骨を形成するアペニン山脈によって分断されている。このため、北と南では雰囲気がまったく違ったものになる。南のサルデーニャ島などは本土から隔絶された地にあって独自の文化圏を持ち、シチリアは、サラセンやノルマン、カルタゴ、ビザンチン文化が入り混じり、独自の風土を形成している。

ピエモンテ、アオスタ、ロンバルディアからパダナ平原を経てヴェニスに至る北イタリアでは、アルプス山脈が北に連なり、これが屏風の役目を果たして冷たい風を遮断している。そのため緯度の割に寒さはそれほど厳しくなく、山の懐が深いため豊かな農産物に満ちている。アルプスの雪解け水がポー川やその支流を潤し、パダナ平原を豊かにしている。この地域はイタリアの農産物の大半をまかなっており、とても裕福に感じられる土地柄である。これらの地域に住む人々は人柄が穏やかで、その食生活も非常に豊かである。季節には四季があり、情緒がある。いわゆる日本人が思い描く“陽気で調子の良いイタリア人”とはイメージがだいぶ異なる。北イタリアの人々と話してみると、南イタリアと自分たちを一緒にしてくれるなという強い主張があることに気づく。

通常、日本人は南イタリアとはナポリ以南を指すと思っている。イタリア通の人でさえ、南イタリアとはローマ以南であると思っている。しかし、南イタリアとはトスカーナを除くボローニャ以南を指すと考えている北イタリア人は意外と多いのである。

南イタリアは保水力に乏しい。アペニン山脈の伏流水があるとしても、大地は乾燥しており、日差しが強すぎて、夏の灼熱の大地は農産物をはぐくむには厳しすぎる。特定の農産物以外は育てにくい土地柄である。灼熱の大地に降る雨は養分豊かな土壌を海に流してしまう。反面、厳しい環境で育った農産物は大地に深く根を張り、個性的な作物である場合が多い。プーリア州などでは平坦な土地は多いが日照が厳しいため深く大地に根ざす作物でなければ夏枯れを起こしてしまう。

アドリア海やティレニア海は漁獲が豊富であり、市場に出かけてみると、魚好きな日本人にはたまらないほど魚種が多い。しかしながら、水産業は零細であり、船団を組んで一大水産業を形成する力を持っていない。農業はオリーブを除いて恒常的な不作で明らかに北と比べて劣っていると思われる。

南では貧困を感じることが多い。このことは、教育水準ならびに食生活などにも著しい差となってあらわれている。特にバジリカータ州やカラーブリア州にはシチリアマフィア以上に恐れられている犯罪集団があり、北イタリアの人々から敬遠される原因にもなっている。しかしながら、気さくで陽気、しかも調子の良い南イタリアの人々は、我々日本人にとっては親しみやすい。年中照りつづける太陽も魅力的で、いわゆるイタリアを感じさせてくれる場所であることに変わりはない。鮮度の良い魚介と、親しみやすいトマトソースのパスタなどは日本人を居心地よくさせてくれる。

元来イタリアは都市国家の集合体であることから前述したように郷土意識が非常に強い。そのことが縁故重視、贈収賄などにつながり、マフィアなどの遠因になっているという事実は否めないだろう。このパッチワークのようなイタリアという国は悪評限りないマフィア(コーザ・ノストラ)などのごく一部を除けば、陽気で親切、海山の景観に恵まれ、歴史の重みと相まって旅行者にとって限りない喜びと憧れを与え続けるであろう。


<地中海のラビリンス(迷宮都市)>

近代の都市設計は機能性、経済性を追求するあまり、巨大ビルディングや箱形の定型化された郊外団地などを生み出してきた。これは、土地の有効利用や車社会であることなどを考えれば、ある程度やむを得ないのかも知れない。しかし、この近代の町並み形成に見られる雰囲気は、どこに行っても同じように索漠としている。整然としているのは確かだが、どこか冷ややかな感じがあり、ツンとしてつまらない。碁盤の目または、放射状といった土地の有効利用と、大量生産しやすい都市設計は現代社会には合っているのだろうが、人と人との交流において、プライバシーにこだわるあまりなのか、社会から隔絶されて疎外されたような人達を多くつくり出している。

アメリカに見られる郊外住宅などは、各戸毎に、きれいに整備された芝生に囲まれて建ち並び、また道路は計画的に造られており、我々日本人から見ればうらやましいほどであるが、あまりにも個人個人の生活が、他と完全に分離されているがゆえに、病的なくらいに自己のプライバシーにこだわる人を増加させる結果となってしまった。全体としての町の住み心地には冷たいよそよそしさがあるようで問題なしとはいえないだろう。

町を散歩したり、生活したりする場合、仮に碁盤の目とか放射状など直線で区画された道路の場合、一度どこかの角で左右に注意を払えば目的地まで簡単にたどり着ける。仮に1キロメートルの道を歩くとき、900メートル地点で右に折れて100メートル歩けば目的地に着くとするならば、最初に900メートルの直線を歩くことになる。この場合歩き始めたときから900メートル先はどのような状態かは当然視野に入っているわけで、ただひたすらにとりあえず900メートルを歩くことになる。900メートル地点に達して初めて右に角を曲がり100メートル先に行くのであるが、歩く楽しみはこの1回しかない。角を曲がったらその先に何があるのか、どんな風情の町並みなのか、はたまた角を曲がったら、途端に絶世の美女や美男に会えるかも知れないなど、このような不可知な多くの機会に巡り会えるような散歩道こそが生活の場における楽しみを与えてくれるのではないだろうか。

こころみに、今、散歩を始めようとするが、そのコースを京都の清水坂から三年坂(産寧坂)を下がって、高台院を経由し八坂神社前に抜けるとしたら、ことは明白になる。自然の地勢のままに左右に道が曲がりくねって、それに坂道が加わることによって、町のたたずまいが立体的、かつ重層的になって、視覚的にも風情が増し、角を曲がる度に、その町並みに変化が加わるのである。角を曲がった途端に舞妓さんたちに出会うこともあるかも知れない。坂の途中でおもしろい店を見つけるかも知れない。散歩することが一層楽しくなるのである。これに対し、三条や四条の大通りを西から東に直線に歩くということになれば、10分もすればつまらなくなることだろう。

地中海のラビリンスとは、迷宮都市という風に訳されているが、イスラム世界を含めた地中海全体に及ぶ生活の場に共通した都市構造(町の構造)である。モロッコのフェズのメディナ(スーク=バザール)におけるそれなどは、ガイド無しでは一生その中から抜け出すことが出来ないといわれるほど、複雑な構造になっている。しかしながら、ラビリンスと京都の三年坂とは、散歩が楽しい、場に無数の変化がある等の点では共通している。

この地中海のラビリンスは、傾斜面に建設されたときは特にその特性が発揮されて面白い。平坦地に作られた場合でも、横町の小道や行き止まりの道などがあったりして興味をそそる。歩き疲れてくる頃には、ところどころにパティオ風の休憩所があり、この町を眺められる休憩所は、ほとんどが住民の共同の広場を兼ねており、日がな一日チェスを楽しむ老人や、政治談義や井戸端会議などができる仕掛けになっている。これは結果がそうなっているのではなく、地域の住民のコミュニケーションを必然的に大事にするためのものであり、歴史の持つ知恵を感じさせてくれるのである。

このラビリンスの原型はフェニキアやギリシャの文化から始まって、イスラムの文化と混交することによって、より複雑、精緻なものに変わってきたように思える。地中海のラビリンスを形成する地域は乾燥地帯であり、河口に大がかりな扇状地を形成するという構造でない場合が多く、海岸線などの堅い岩盤の上に残る緩やかな起伏を上手に取り込んで町づくりがされている。ただ単に自然環境がそうであるというだけでなく、歴史始まって以来の、地中海を舞台にした興亡の歴史が、故あってそのようなラビリンスを生んできたのではないだろうか。

内陸では、比較的平坦な場所に、しかも交通要衝などに適した所に大規模な都市が建設されていることが多い。これはオアシスが盆地や山の麓などに形成されるため、当然のことと言えるかも知れないが、その場合でも、中心には交易所や集会所を兼ねた広場が作られ、それを取り囲むようにメディナ(スーク=バザール)が張り付いている。メディナの中は、決して直線による区画はされておらず、行き止まりの道があったり、意図的な曲線等があったりして、道が単調にならないようになっている。

この点は、ローマ帝国による町並みが直線により整然とできているのとは趣が異なっている。広場や劇場などの公共的ふれあいの場を形成しようとするイスラム風の細密な意識は、心のふれあいをより濃密にとりやすくしている。部外者には、判りがたい町の構造は、そこに定住する住民には落ち着いた居心地を提供しつづけているに違いない。交易の中心を成す広場は、したがって、部外者もすぐにたどり着ける構造になっている。また、商用の場であるスークと居住用のスペースとは接しているものの、直接に出入りできることはなく、部外者が立ち入ることのない場所から秘路となってつながっているのである。これによって完全に各家庭のプライバシーが守られている。

ヨーロッパ側の地中海に面する南仏やイタリアなどの都市や小さな魅力的な町は、たいてい、グレコ・ローマン時代の都市設計をビザンチンやアラブ、イスラムの様式に改修、手を加えることで一層魅力を増したものにしていると言えまいか。イスタンブール、ヴェニス、レッチェ、パレルモ、タンジール、グラナダ、タラゴナ、ニーム、ニース周辺、サンレモなど、果てしない数の魅力を持つ都市がそのような影響を大きく受けている。フィレンツェにしてみても、フィレンツェ独自のルネッサンス風ということはできるが、ブルネルスキーによって建てられたキュポラのある花のドゥオーモなどはビザンチンの影響なしでは考えられない。アマルフィやポジターノなど、世界的都市景観の極致とも言える町も同様である。

大都市になると人々の暮らしぶりも違ってくるので、ラビリンスのみでは不便が生じてくる。トリノやそして十字軍の遠征基地だったバーリの町などは、始めに都市設計が明確になされ、堂々とした機能性の良い仕上がりの素晴らしい町となっている。しかし、ビジネス以外を目的にした旅行者にとって、これらの町ほど、散歩するのにつまらない町はない。

トリノの町は産業に恵まれてイタリア屈指の裕福な町である。町のたたずまいは、壮麗バロック様式の堂々とした造りであり、個々のレストランやカフェ(バール)などの装飾も、とても洗練されており、イタリアでも屈指の上品さをもつ町である。二度三度とこの町を訪れると、それでも訪れるほどに飽きが来るのである。小生は近年仕事の都合で、この町あるいはニースを拠点に動くことが多く、トリノについては知っているつもりだが、どこを歩いても立派な建物とアーケ-ドが一体となって、非常に便利で暮らしやすいと思われるのに、町を歩く面白味に欠ける。最初に受けた感じは、なんと素晴らしい立派な町だと思ったのであるが....。これはナポレオンの義弟だったミュラ将軍によって造られたバーリの町ともほぼ共通した印象である。

いかなる天才が設計した都市であっても、その天才一人のみの頭脳には限りがあって、全ての条件を満たすことは所詮無理であろう。近代のル・コルビジェなどの天才による素晴らしい建築も、人民が暮らすあらゆる居住性についての評価は時を経てみないと真に評価しきれないと言えよう。建築物は、ほんのわずかな空間に残すモニュメントにすぎず、幾星霜にわたって建設され、維持、改修の上に立って現存しているものの中にこそ、本当の意味の快適さというものがあるのではないだろうか。

その意味で、ローマやビザンチンなどの都市設計および建築技術を取り入れたイスラム風の「人のふれあい」「やすらぎ」を大事にする町づくりこそ、現代の「東京ビル砂漠」や「ニューヨーク摩天楼砂漠」に求められていると思われる。

一度、モロッコのフェズやマラケシュのメディナを訪れてみることをおすすめする。そしてイタリアではアマルフィの海岸にゆっくり滞在してみると良い。きっとラビリンスについての答えが得られるものと確信する。


<シチリアの風土と文化>

シチリアはカラーブリア州のつま先に蹴られた石ころのような感じで、メッシーナ海峡を挟んで本土とは指呼の間にあり、ビザンチン、アテネ、カルタゴ、そしてヴァイキングの北方民族、そしてスペインの征服と圧制に苦しめられた過去を持ついわゆる文化の十字路とも言える土地柄である。2月にはアーモンドの花が日本の桜のように美しく咲く暖かい地である。人口の少なかった中世以前は、その人口を養うに足る豊かな島であったに違いない。スペインやビザンチン、カルタゴの征服者にとっては乾燥した大地は母国を思い起こさせる風土であり、ノルマン人などの北方の人々には、降り注ぐ太陽の恵みは憧れの大地でもあった。

それ故に、この四国ほどの小さな島にはカターニア、シラクーザ、アグリジェント、パレルモ、タオルミーナなどに見られるように、異質性が混在しており、限りない興味と旅情を満たしてくれる。

シラクーザはアルキメデスの生まれ住んだ土地でありアテネの植民都市で本家をも凌ぐ繁栄の時代を経験している。残された遺跡の数々は必見の価値がある。

タオルミーナのエトナ山は、活火山として世界的に知られており、その裾野の秀麗なことと、周囲の海山とのコントラストは、我が国の富士山に匹敵する印象深い名山である。

島のへそと呼ばれるエンナは鷹の巣の町と呼べる絶壁の上に発展しており、不思議な印象を与える。絶壁の上に町を作るということは、外敵の侵入を防ぐため、マラリアなどの疫病から身を守るため等、理由があるに違いない。

シチリアの2月末の野面は、ことのほかのどかで素晴らしい。アーモンドの畑はまるで桜の園のようである。その他にも桃やあんずの木々に花が咲き、野原は柔らかい新緑に覆われ、黄色いタンポポなど無数の花が咲き始める。シチリアの広い盆地はコンカドーロ(黄金の窪地)と呼ばれるが、全島が美しく見える。ただし、真夏の7~8月はとても暑いので、訪れるならこの時期は外した方がよい。

食べ物に関して言えば、オレンジは本当に美味しい。アーモンドの粉で作った菓子も有名である。アフリカが近いせいか、どの町においてもクスクスがレストランのメニューに載っている。パレルモなどでは屋台の立ち食いのピッツァも美味しい。

歴史に興味があれば、シラクーザの町、遺跡の多いアグリジェントの町も面白いだろう。絶壁の上に町を形成したエンナも面白い。ラグーザはどっしりしていてまた別の趣がある、かって大地震に襲われて壊滅状態になった町であるが今は立派に再建されて趣がある。イタリアの画家に嫁いだラグーザ・玉子ゆかりの土地でもある。

シチリア島内の列車による移動は比較的大都市間に限られるので、レンタカーで周れば田舎の素晴らしい情緒に触れられて感激を覚えるだろう。このような、さまざまな顔を見せてくれる美しいこの島の旅情をじっくりと味わいたいものである。

シチリアと言えば、たいていの日本人はマフィアの島といった認識しか持っておらず、先に述べたようなことは、イタリア通以外の人には知られる機会が少なく残念である。


<マフィアなどの闇黒世界   シチリア>

コーザノストラ(秘密を大事にする-オメルタ《沈黙》の掟を守るとして知られる)と呼ばれる組織は、暗黒街に君臨するマフィアとして世界的に良く知られているが、その形成の過程には誰もが納得せざるを得ない事情があった。

過去の歴史において東西南北の諸国から征服されてきたという事実によって、侵略者に対する対応策、すなわち、彼ら独自の権益を保全するための組織として、コーザノストラいわゆるマフィアに至る道が開かれたのである。それは当然自警団的性格を持ち、外部からの侵略者に対しては違う言語で対抗した。この結果、組織構成内における結束はより強くなり、絶対的に秘密が守られる組織へと進化し、次第に変化して暗黒の組織の要素を持つに至ったと思われる。近世、人口が増え、貧困ゆえに自国の人口を賄えなくなり、新天地アメリカへの移民が急増し、更に勢力を拡大したものと察せられる。シチリアからアメリカに移民したのは、一家の次男、三男たちが多かった。いわゆる実家から土地を相続できない若者が主であり、さらには、十分な教育も受けられずに口減らしで移民に加わったのである。当然の成り行きとして、一部の者は貧困の生活を生き抜くため、口の堅い特性を利用して、暗黒組織化していったものと想像する。

パレルモからおよそ30~40キロメートルの場所にコルレオーネ村という場所がある。言わずと知れたゴッドファーザーの故郷として映画であまりにも有名であるが、ここではオリーブやアーモンドの木々が豊かに茂り、羊飼いがのんびりと牧羊に励んでいる。とてものんびり、ゆったりとした風景は、終生忘れ難い心地良い風景のひとつである。このような無垢な風景のように見える風土の内に、あの凶悪な組織の本家本元があるとはとても思えない。普段にはごく普通に生活しているあらゆる職業の人々の内に、密やかに堅く結ばれた悪の組織の根源があるとは、にわかには信じがたい。

パレルモがマフィアの本拠地であり、ナポリには「カモッラ」といわれる、ならずものの集団があり、カターニアにはカラーブリアの「ヌドランゲタ」と呼ばれるマフィアも黙ると言われる凶悪組織の活動拠点がある。初めてカターニアを訪問したときは、不気味な感じで胸騒ぎがしたほどであったが、よほどのことがない限り(組織に害を与えない限り)、一般の生活には干渉しないので、慣れてくるとその印象は薄らいで気にならなくなる。これらの暗黒世界のことはイタリアにとって恥部ではあるが、われわれ旅行者に取っては無関心ではいられないので以下に知り得たことを書き綴る。

小生は映画のゴッドファーザーが好きで、映画で流れる主題歌の持つ郷愁を誘うような旋律が大好きだ。その旋律に酔いしれては、ホテルのサロンバーでもよくリクエストをしては雰囲気を楽しんだものだ。マフィアのふるさとといわれるコルレオーネ村にも数回ドライブしながら行っている。一度は、車2台を連ねてのドライブで、コルレオーネ村のちょうど入り口で1台の車(レンタカー)が故障し、いやおうなく空港にUターンさせられたが、それはそれでなかなか得がたい時間を過ごしたのだった。その日は日曜日だったのでレンタカーオフィスや修理工場との連絡が取りにくく、結局コルレオーネ村の入り口にあるバールに入りタクシーの手配がつくまでの3~4時間に及ぶ待機時間を余儀なくされたのである。その間出入りする村人たちと談笑したり、アーチチョーク売りを冷やかしたり、また同時に注意深くマフィアの本家本元であることを意識しながら様々に観察していたのである。

いずれにしてもコルレオーネ村周辺の牧歌的風景はシチリアを代表しているにように思える。旅行者として感じる雰囲気のどこにも、あの残酷な殺し方をする映画に見るマフィアの殺伐さはなく、牧歌的風景に満ちあふれている土地である。しかしながら、ここは紛れもないゴッドファーザーのふる里であり、この周辺には無数のシンパがさりげない暮らしを続けながらマフィアを構成していることは事実なのだ。

コルレオーネ村は、映画のロケ地として格別に有名になったが、マフィアの村はここだけにとどまらない。トラパニやマルサラ、エンナ、シャッカなど全シチリアにその組織は張り巡らされている。

このシチリア島の歴史を振り返ってみると、ギリシャの植民地都市がシラクーザやアグリジェントにその遺跡が今に残る形で始まり、フェニキア、カルタゴがそれに続き、次ぎにローマがそれらを破壊して、更にはノルマン人の侵略やビザンチンの侵略があって、中世以後は、スペインのアラゴンによって征服されている。あたかも少女が乱暴されるように屈辱されてきたのである。屈辱を与える者に対して自閉症のように自らの心を閉ざしたのは当然のことと理解される。さらに言葉の通じないこの侵略者の統治は、その上澄みをかすめ取るだけの政治が多く、シチリア住民のために心血を注いだ政治などなかったに違いない。

そのような状況の中でマフィアの組織は他の組織などに対して口の堅い組織として形成されてゆき、所属するファミリーには絶対服従し、他者には絶対に仲間内の秘密を打ち明けないなどという形態へと変化して、犯罪行為を行う集団としての適性を備えていったもののように考えられる。ナポリから南では、物が盗られたりしたら、警察に頼むよりマフィアの組織に頼めば真相がすぐに判明し、解決が早いとされたらしい。その上、マフィアの場合は、それぞれのファミリーを代表する長、すなわちゴッドファーザーによるファミリー間の調整機関があり、利害の調整を行っていたようである。

シチリアの次男、三男は20世紀に入って、大勢が生活難民としてアメリカに移民したが、文字の読み書きもできない者がほとんどであったため、移民先でも下積みの仕事にしかありつけなかった。そのような若者達が、シチリアの風土の中で培われた仲間を裏切らない、口が堅いといった性格をフルに悪用して次第に現在のマフィアの集団を形成していった。

悪人にも悪人なりの言い分はあると同様、マフィアの特徴のひとつに男伊達の美学なるものが存在する。まず、仲間の妻を盗む者は死によって報われる。また売春などで営利を上げるものは男子の風上にも置けないとして、これも死によって償わされる。このような掟があるらしい。

したがって、マフィアの構成員になるときも、近親の者に売春をする女性がいるかどうか厳しく調べられ、もしそのような婦人が一人でもいれば、マフィアの構成員になれないとされている。売春はマフィアにとって人間の尊厳を犯すものとして殺人よりもはるかに罪悪とされているのだ。そういえば、パレルモやカターニャそしてナポリなどの夜の散歩でそのような女性から声をかけられた記憶はない。

マフィアは初期の頃は、麻薬は扱わなかったようだが、抗争がエスカレートして、組織同志で殺し合うようになって、手っ取り早く金になる仕事なら何でもする組織へと変化し、現在では世界中の麻薬元売り販売の組織へと変わってきているようである。

マフィアは本籍がシチリアであっても、今ではアメリカを主たる根拠地としており、イタリアでの活動はそれほどではないということだが、派手にドンパチをしないかわりに、深く根付いており、その根絶に司法当局は躍起になっている。しかし、この司法当局者に対しても公然と殺戮を行い、心あるイタリア人に負い目をおわせ続けている。


<ナポリのならず者 カモッラ>

ナポリはシチリアのパレルモと空路および海路ともに便が良く、物資の集散や国際航空を利用するシチリア人にとってもシチリアのもうひとつの玄関の役目を果たしている。そのようなことから、アメリカで司法の手から逃れたマフィアの親分たちが出入りする町としても、パレルモと並び悪名高いのである。

「ナポリを見て死ね」、曰く「日光を見ずして結構と言うな」と同義だが、この町の雑然として品の悪い雰囲気というものはけっして誉められたものではない。元来、この町がマフィアに汚染されるまでは、カモッラと呼ばれる博徒を生業とした、ならず者がはびこっていた町なのである。

おなじ南イタリアといっても、ナポリの人間とシチリアの人間はまるで違う。シチリア人も陽気で人なつっこい点では似ているが、無駄な駄洒落など、つまり必要以上のことについてはしゃべらない。寡黙で仲間をかばい合うのがシチリア人男性美学なのに対し、ナポリの男たちは、おしゃべりで調子が良く腰も軽くて悪くいえばいい加減なのだ。その上、パフォーマンスが派手ときている。北イタリアの人達がナポリ人と聞けば、てんで相手にしないというのも頷かざるをえない感じがする。

シチリアのマフィアのような深い苦しみと悲しみの歴史の内で培われたものとは違い、けばけばしい、ならず者の集団、それがカモッラなのである。次第にマフィアの使い走りとなって、同化吸収されていったようである。(マフィア - 竹山博英著 講談社現代新書から)

アメリカの暗黒街に君臨したアル・カポネはこのナポリからの移民であり、シチリア人でないためマフィアに入れなかったとのことである。いわば暗黒街では傍流に過ぎず、派手なアクションで人目につこうとあれこれやったらしいが、そうだとすれば、やはりナポリ人だと言えよう。


<カラーブリアの誘拐集団「ヌドランゲタ」>

イタリア本土最南端にカラーブリア州がある。隣のバジリカータ州も含めこの地域は凶悪誘拐事件の多い土地柄である。

問題の根源はやはり、貧困にその原因がある。イタリアの最南端は極めて峻険にして突兀とした地形で各集落ないし都市と都市の間は完全に遮断されている。そのような峻険な地形の中に点在する集落や都市間を結ぶ道路というものは、極めて頼りないもので、単線または砂利道で危険極まりない。住民の暮らしは麓の小さな盆地に形成されたわずかばかりの耕地によって成り立っているが、これではとても多くの人口を抱えることはできないし、ましてや移出できるだけの量産もできない。工場などの産業用地も道路事情の悪さもあって、無論立地されていない。

最近でこそ、この地方も道路の整備により、短時間で他の地域と交流できるようになってきたが、日本でいえば、群馬県と長野県境にある妙義荒船山塊の八合目付近を縫うように高速道路が走っており、カラーブリアとバジリカータ州の住民の暮らしは高速道路を外れて狭い地方道を深く入り込んで見なければその実状を知ることはできない。

このように他を寄せ付けない地勢では、各集落に根付いた封建的家長制のような社会構造が生まれるのも当然であろう。それゆえ、それぞれの家長の下に結集した仲間同士の情愛は濃密さを増し、身内の利益を確保、保持するために強烈な気質が育っていく。シチリアのマフィアのように他国からの侵略によって仲間内の結束が固くなっていったのと事情はかなり違うが、身内の利益のためには容赦なく他を排除するといったようなことが助長されたのは想像に難くない。

以前に(1970年前後)、アメリカの石油王、ポールゲッティの息子が誘拐されて発見されたのもカラーブリア山中であったと聞くが、巨額の身代金を支払って、解放されている。小生の古い友人のM氏に聞いたところによると、ゲッティ氏は世界的金持ちにもかかわらずケチで、自宅の来客用の電話はコインを入れなければ使えなかったとのことで、息子の切り取られた耳を送られるまで、身代金の支払いを渋ったとのことである。このように、身代金目的のために、ローマやミラノなどで要人や大金持ちが誘拐され、場合によっては山中に遺体で発見されたことが再三あり、イタリアで誘拐事件があれば、遺体はカラーブリアの山中から出てくると言われるほどである。

ここでも犯罪の根源にあるのは、貧しい大地の中での生活の困窮である。手っ取り早く自分達の欲求を満たすために犯罪集団が増殖したのだ。(興味ある方は、竹山博英著「マフィア」講談社現代新書にこの地域のことが詳細に書かれてあるので参考にされると良いと思う。)

フランスのコルシカ島のヘロイン製造所が仏当局の手入れにより壊滅的打撃を受けた、いわゆるマルセイユのフレンチコネクション崩壊後は、中南米のペルーやコロンビアの麻薬組織と販売面で暗躍するアメリカのマフィアによって、今度はカラーブリア山中深くでヘロインの精製が行われ、今ではカラーブリアの暗黒組織「ヌドランゲタ」とマフィアの協力関係が密になって、全欧州をもターゲットにした麻薬密売の巣窟になっているようである。

カラーブリアのコセンザやレッジョ・ディ・カラーブリアの町では、都会から離れ過ぎて何かと不便なのであろう。今では彼らの暗躍の世界はシチリアのカターニャを拠点にしていると聞いている。カターニャはシチリア第二の都会で、近くにタオルミーナなど世界的な観光保養地もあり、また国際線の発着に便利なカターニャ空港もある。犯罪の陰でわずかばかりの優雅なひとときを、ならず者らしい派手さで満たすには充分かも知れない。竹山氏の「マフィア」によれば、カラーブリアを離れた移民の数は1955年から1975年の20年間におよそ75万人あったとされ、ほとんど信じられない数字である。ちなみにカラーブリアの総人口は210万人だったとある。


<陰の国と言われるサルデーニャの負の部分>

サルデーニャは四国よりやや小さい地中海の中心に位置する島で、ヌオーロから南東にかけての峻険な山塊を別にすれば比較的なだらかな地形であり、有史以来もっとも古いと言われる牧羊を営んでいる。この島は、ヌラーゲに象徴される5000年にも及ぶ先史時代からの歴史を持ち、後にはフェニキアやカルタゴ、そしてローマ帝国やスペインアラゴンなどの侵略を受けた。

歴史の中で集落が形成されていく過程では、サルデーニャ人同志の中で悪事を働くものたちが村から疎外され、奥地へと追い立てられ、山中深く住まざるを得なくなってしまったという事実もある。彼らは山中に横穴を掘り、生きるために次第に山賊行為や略奪、誘拐などを働くようになっていった。近年までそのような事件が絶えなかったように聞くが、今では山賊行為が、時々発生する程度にまで減って、穏やかになったとのことである。したがって、サルデーニャの恥部とされてきた陰の国と呼ばれることも次第になくなりつつある。この島では麻薬などマフィアとのつながりも比較的薄い。

小生はこの島に素朴な郷愁を覚えて、また、取引先がここにあることもあって、何度もでかけているが、サルデーニャの名誉のためにあえていえば、この島の人ほど朴訥寡黙で実直な人々は他のイタリアのどこにも居ないと言える。シチリア人とは似ている部分はあるが、サルデーニャの人々は心根もやさしく信頼できるのである。ナポリなどの調子の良い無責任さとは対極にあると言って良い。北イタリアの人々は信頼できて洗練されているが、素朴さにおいて剛毅さにおいてサルデーニャの人々は群を抜いている。

1985年頃に最初に訪問したときは「陰の国サルデーニャ」の印象が強く、ヌオーロなどで当時見かけた黒ずくめの婦人の服装などにより、いささかたじろいだりしたが、今はゆっくりとくつろいだ気分で旅ができる。スリなどの犯罪もあまりない。ポルトガルの魚港の町ナザレにも見られる女性の黒ずくめの独特の衣装は、その由来は海難によって喪服を脱ぐまもなく不幸が次から次へ降りかかったことによるとされているが、サルデーニャにおける黒ずくめの衣装もこれに似た理由があったと聞いている。

話が変わるが、旅行者にとってイタリアほどスリや置き引きによる被害の多い国はないと言える。ご存じのようにイタリアという国は、国中が博物館とも言える史跡の宝庫であり、ヴェニスやフィレンツェ、ローマ、ソレントなどには世界中から観光客が押し寄せてくる。観光客たちはおしなべて消費するためのお金を大事に身につけて旅をしているわけだから、スリなど盗みを働く者にとっては格好の標的である。そして世界中は日本のように平和ではない。戦乱や政治的理由で国を逃れた人達、また追われた人たちは、アルバニアから、ルーマニアから、そしてユーゴスラビア、また旧ロシアの国からイタリアに入ってくる。言葉の違うイタリアに来て、定職にありつけない難民とも言える人達が無数にいるのである。むろん、他のヨーロッパ中にもいるわけだが、泥棒で生計を立てている者は数えきれない。ジプシーもこの中に入る。

かれらはわずかなスキでさえも見逃してくれない。すなわち、イタリアにおいてスリなどの軽犯罪をする人達の大半はこのような背景から罪を犯すのである。もちろん、すばしっこいイタリア野郎の盗人プロ集団がいるのも間違いないが。小生自身被害者になりかけたことはあるが、実害は受けていない。


<閑話休題   マフィアの護送>

マフィアの犯人が護送される現場に出くわしたことがある。それは1993年と思うが、サルデーニャのカリアリ空港からシチリアのパレルモに夕方到着する便に乗ったときのことである。カリアリの空港は小さく、飛行機もタラップを登って搭乗するのである。パトカーが6~7台、例のランプを点滅させて飛行機の後部を取り囲んでいた。

その時、スポーツ用のトレーニングパンツとシャツを着たマフィアの囚人と思われる三人が前手錠をはめられて、警官十数名のものものしい警護に守られて後部のタラップから乗り込んだ。その後に小生は前部の搭乗口から乗り込み着席したのだが、あまりのものものしさに驚いた。犯人だろうマフィアを取り囲んで後部と前部そして側面にびっしり警官が張り付き、これ以上ない警護ぶりであった。前列二列には警官が着席していたように記憶している。

その時の機内にいる搭乗客は、またいつものことが始まったのかといった感じで、無関心を装っているように思えたが、機内では誰一人として咳きひとつすることのない緊張感が漂っていた。100人乗りくらいの小さな機内のことである。小生も意識しないような顔をしていたが、その実、最後部の護送が気になって仕方がなかったのである。

そのうち搭乗客の一人がトイレに立ったので、小生も興味津々なので、小用をする必要などないのにトイレに立って、後部に歩いて行った。警官の厳戒態勢のような視線の中で自分は何食わぬような顔をしてトイレに入ったが、その時見たマフィアの顔は、凶悪な顔には見えたが、映画で見るような格好良いものではない田舎の「おっさん」風の無教養な40代半ばの顔だった。

カリアリの監房からパレルモに移送されたものであろう。トレーナーのような着衣の彼らには哀れさが漂っていたのである。パレルモに到着した後、まず始めに彼らが機外に出て、しばらくしてから、搭乗客が降りたが、全員やれやれといった緊張から解放された安堵したような表情であった。思うにあれだけの厳重な護送だったので地元の搭乗客は、護送されている人物はかなりの大物で、どのような事件を起こしていたのかについて知っていたに違いない。

マフィアの重大犯人を裁く法廷がパレルモの厳重に防護された檻の中で開廷されたと報道されたことがある。小生の親戚の神洋明弁護士も弁護士会を代表して視察をしているが、とても厳重に警備された異様な雰囲気の法廷だったと聞いている。


<サルデーニャの独自性とその心象風景>

この島は地中海のほぼ中央に位置し、シチリアに次いで大きな島であるが、シチリアに比してさほど他国の侵略を受けず、その風土の中からサルデーニャ独特の文化を発展させてきた。しかしながら南西部カリアリ郊外にはpura (nora)というギリシャ時代の植民都市の遺跡があり、北西部分のアルゲーロの町はかつてスペインのカタロニアに征服された影響が残っており、年長の人の間では今でもカタラン(カタルーニャ語)が通じる。

観光目的で言うなら、何度かイタリアに旅行した人々が最後に訪れる島がサルデーニャであり、その意味では未だ団体観光客には汚染されておらず、非常に安らいで異郷を愉しめる場所であるとも言えるだろう。

日本人観光客にとってサルデーニャといえば、コスタ・スメラルダ(エメラルド海岸とも呼ばれる)に代表される贅沢なリゾート地として知られることが多いようだ。コスタ・スメラルダのポルトチェルボは武器商人として世界的に有名なアガカーンによって比較的新しく建設されたリゾート地である。コートダジュールやリヴィエラといった都市化されたリゾート地に飽き足らない世界の金持ちの人々を対象として、豪華ながら非常に落ち着いた雰囲気のホテルやそれを取りまく別荘群によって形成されている。代表的なホテルのショッピングアーケードにはエルメスやグッチ、フェラガモなどの高級直営店が軒を連ねており、ホテルのダイニングにも一流のシェフが揃っており、その快適なること、高額な料金を支払ったとしても納得できるものである。

たいていの日本人観光客はオルビアの空港に降りて、コスタ・スメラルダに1~2泊して、またイタリア本土に戻るようで、サルデーニャとはコスタ・スメラルダのことだと思っているかもしれない。しかしながらサルデーニャ人またはサルデーニャを良く知る人々にとってはコスタ・スメラルダ(エメラルド海岸)を除いた土地こそがサルデーニャなのである。

世界の歴史の中で最も古くから牧羊を始めたといわれるサルデーニャ島は、今でも島全体が牧羊を中心とした農業の盛んな国である。のびやかで心休まる島であるとの心象風景は、緑の平原に群れる羊たちを見て誰もが感じることであろう。

一方で、比較的大きくてなだらかに広がっているこの島の中央部ヌオーロからアルバタックスの東南部にかけて険しい山岳地帯がある。古来、島のならず者が村八分同然にされて、その深く険しい山岳地に移住して山賊同然の悪さをなし、誘拐殺人などが頻繁にあったことから、ヌオーロを中心とするサルデーニャは陰の国と呼ばれる不名誉を受けてきたという側面を持っている。羊飼いなどの集団を形成しながら、トスカーナの奥深い地方で、誘拐に関わっているサルデーニャからの集団がいるということを塩野七生氏の書によって知った。

世界史上にその祖先が特定できないといわれる三大不思議は、スペインのバスク人、イランやトルコなどの国境に住む少数民族クルド人、そしてサルデーニャ人だと言われている。サルデーニャ人がどこから渡来したのかについては、その言語などからも解明されていない謎だとされるが、小生の長年の旅行経験からの直感では(全く根拠が無いのであるが)、クルド系とまじった小アジアからの渡来ではないかと思っている。もちろん現在ではこの島にはイタリア本土からもヨーロッパ全土からも人種的同化が進んでおり、サルド人(サルデーニャ人)特有の容貌のいかつい人々はまれにしか見られなくなっている。

人柄、気質に至っては前に述べたことと重複するが、北イタリアや南イタリアそしてシチリア人などと比較しても、際だった違いが見られ、寡黙で毅然としており、素朴で心優しい、とても安心してつきあいのできる人々が多く、小生にとっては心安らぐ土地である。

コスタ・スメラルダを除く真のサルデーニャについて、一言で語ることは難しいが、あえていえば、無駄な装いがなく、地味ながら敬虔に生きる素朴さにその特質があると言えよう。島には先史時代からのヌラーゲといわれる遺跡(居住、祭祀、集会などに使用したという)が点在し、それを取り巻く牧畜風景はとても穏やかな島だという心象を与える。生活の原点に近いものを見いだすことができる気がする。

海は表現のしようもないくらいきれいに澄み、青々としている。冬のティレニア海のしけ時化やコルシカ島との間にあるマッダレーナ海峡の荒れるとき以外の凪いだ海の光景は、なんと表現すればよいのか、言葉もない感動を覚える。この地に立ち、ポエニ戦争などのフェニキアの昔を追想すれば旅情はこれに尽きるといっては言い過ぎであろうか。

島の全周囲を車でドライブして気がつくことは、サッサリ、アルゲーロ、ボサ、カリアリ、アルバタックス等ごく一部の港町を除けば漁港と呼べる大きい集落はない。海岸線は果てしなくきれいな岩礁と砂浜でつながっており、ことさらにその自然の無垢に驚かされることは間違いない。

小生の友人で元カリアリ大学の教授であったクィリーノ・コーゲ氏によると、古くよりサルデーニャ人はフェニキア、ギリシャ、スペインから(シチリア人ほどではないが)侵略を受けている。その侵略はいつも海からやってくるので、サルデーニャの人々の間には海を恐れる気質が育ち、同時に侵略者からの被害を逃れようと豊かな内陸部に生活の場を求めて入っていったため、海岸線の自然が維持されてきたとのことであった。サルデーニャでは海に囲まれていながら魚を食べず、肉食を中心とした食生活を送っているというのもこれが一因であるという。

大規模なコスタ・スメラルダのようなリゾートが形成されていたり、現在ではカリアリのような産業都市周辺の海岸に大規模な重化学工業などのコンビナートが建設されていることは(日本のブリジストンタイヤ工場も進出している)、未利用地があり余るほど残っていたからに他ならない。サルデーニャ好きの小生にとっては、その美しい自然が産業立地化することに大いなる寂しさを禁じ得ないのである。

この島の交通機関は電車よりバスの方が便利に思われるが、なんといってもレンタカーに限る。主要都市をつなぐ道路は立派に整備されており、難儀することはない。電車も南北を縦断する幹線があるけれども運行本数が少なくとても不自由である。島を一周ドライブしてみると、日本の道路沿線に見られるような宣伝看板が皆無に近いのでゆっくりと自然を満喫できる。

牧羊の歴史は世界で一番古くからサルデーニャで始まっており、内陸全体に及んでいる。島の中央部ヌオーロから東南にかけての山岳地帯は、名高い誘拐団の巣くう地域なので、枝道に入り込むことは慎んだ方が良い。五月のはじめにはカリアリを中心に伝統的聖エフィシオの祭りがとても華やからしい。カリアリは島一番大きい町で何でも揃っている大都会である。この島の素朴さを味わいたければ、アルゲーロやボサ、そしてローマ遺跡のノーラなども情緒があってとても良い。食べ物は、牧羊が盛んな島であり、各種の肉や乳製品、特にペコリーノチーズなどが美味しい。チーズなどは道路沿いで、直接生産者からも買える。魚介類に至っては驚くほど豊富である。うなぎの養殖も盛んに行われている。

カラスミはイタリア語でボッタルガと呼ばれるがこの島の特産品である。オリスターノ近くのカプラスがその中心地である。夏から秋にかけて海水と淡水が交じり合う場所にカメラ・デ・モルト(死の部屋)と呼ばれる仕掛けをしてボラを水揚げするのである。ここでの生産量は日本の数十倍はあるようだ。

小生の経営する地中海フーズ株式会社がはじめてこの地からボッタルガの輸入をしたのであるが、今では追随する社もでてきており、いささかながら我が愛するサルデーニャ島に貢献出来たものと思っている。ことのついでに言うと、サルデーニャにおけるカラスミ即ちボッタルガの歴史は、フェニキアの時代からだと言われており、そうだとするならば優に2000年以上の歴史があることになる。日本には織田信長の時代に南蛮貿易によってもたらされて以来、大名に献上されたりして定着したらしい。織田信長にその品物の名前は何というのかを問われて、献上した人がとっさに唐の墨に似ていることからカラスミと答えた、そんな経緯があってカラスミと呼ばれることになったらしいのだ。そのカラスミを初めて日本に輸入した始めた頃は、カラスミの生産は日本こそが本場であると思っている人がほとんどで、ヨーロッパがその本場であるといっても信じてもらえずいささか苦労したものであった。今では少なくとも業界の方々には理解されるようになって、多くのレストランでパスタなどの料理に使用されており、小生の苦労は十分に報われてきている。このカラスミは古来からエジプト、トルコ、ギリシャ、イタリア、南仏、スペインなどで作られており、今でもその生産量の総計は日本の100倍は超えるものとみられる。

サルデーニャの海の透明度は世界でも最も高い部類に入ると思われる。取り巻く海域ではクエやアンコウそしてウニや鯛、ひらめ、伊勢えびなどの高級魚が豊富であり、食の楽しみにはこと欠かない。先年アルゲーロの海で泳いだ折には岩場にびっしりとウニがついていて驚いた。サルデーニャのウニをほとんど買い占めているのも日本の企業だと現地で聞いた。

島の中央部で生産されるベルナッチャワインは独特の味わいである。もちろん牧羊の歴史では世界で一番古いことから羊のチーズ、ペコリーノ・サルドは欠かせない。

サルデーニャの良さは、時を忘れさせてくれる風土と人々の気質だろう。これは南イタリアやシチリア、そして北イタリアと比べても際だった違いである。素朴な大地と、忘れ難いのびやかな風景、質朴だが暖かいホスピタリティー、これがこの島の特長である。


<地中海の孤島コルシカ>

コルシカは決して孤島ではないのだけれど、峻険な岩山だらけで一部を除いて断崖の海岸線が続くこの島は、北西部にそびえるチント山(2700m)に象徴されるように、孤高と頑固さを感じさせる。中世にはイタリアのピサ共和国に属し、近世に入ってフランスに編入されたこのコルシカ島はナポレオンの生誕地としてあまりにも有名である。

北部の古都であるバスティアからはイタリアのリヴォルノ、ジェノヴァ、サンレモなどへ船便があり、北西部のカルビーからはニース、マルセイユへの便がよい。ナポレオンの生地であるアジャクシオからはニースの他にもマルセイユ等へ豪華な客船が就航している。また、南部のボニファシオからはサルデーニャのサンタテレザまたはパラウに頻繁に船便がある。このように、けっして孤島などではないことは明らかなのだけれども、孤高の印象が強く感じられるのはいったい何故なのだろうか。

島の東部の一部を除けば、全島に険しい岩山と洋松の疎林が続いている。街と街の間、村落と村落の間が相当の距離を置いて点在し、一歩間違えば垂直に切り立った深い谷底に転落しかねないような単線道路によって結ばれている。したがって本土の暮らし向きとは違い、日々の食生活は、自給できるもの以外の生鮮品などは入手が困難で、塩蔵品や乾物などを使った食材に頼らざるを得ない。

風土によって人間の性格が方向付けられるといわれるが、同時に日々の食生活も人柄、気質に少なからず影響を与えるということは自然の成り行きであろう。島民の食糧が果たして確保されているだろうかと思えるほど耕地の少ないこの島は、しかし個性的な植物も多く、松の他に栗や樫の木等に混じって、ミルト(ミルテル)の木が高くそびえ、またその根元には、この島原産のシクラメンが群生している。シクラメンの野生種は、日本で見られる大ぶりの花とは違い、ひとまわり小さく、ちょうどかたくりの花のようである。

5月にこの島をドライブした折には、野生のクリスマスローズとシクラメンが山道の至るところに咲いていた。岩山にそびえる疎林は強風にさらされ、樹木の生成もいびつになっているものが多く、上の方に伸びずに地中深く根がこぶとなって育っている。したがってパイプ煙草のブライアーの材料は、コルシカ産のものが最高品質として知られている。

しかし、頑固で孤高を強いられるこの島の人々は一旦心を許せばとても濃密であり、暖かい心を持った人達である。旅をする者に対し愛想が良いとは言えないが、質朴で懐かしい思いを発見できる島でもある。あまりにも急速に進みすぎた日本のような都会からの訪問者には、かならず旅情が満たされるものと信じる。

この島のもうひとつの側面として、戦前には麻薬等の生産地としても知られ、マルセイユの暗黒街とも深い関わりがあったことが挙げられる。マルセイユの麻薬犯罪集団はフランス当局による一斉摘発により撲滅し、このフレンチコネクションと呼ばれた組織が撲滅されたため、麻薬犯罪はコロンビアやイタリアのカラーブリア州に移った。針の山で作られたようなこの島の地形は、地元の人しか近づけないような場所も無数にありそうだ。

島を巡る交通機関も不便極まりないのでレンタカーに頼るのが一番だが、地質は細かい砂利を含んでおり、路肩が滑りやすくとても危険である。山道は乗用車が対向するにはぎりぎりの幅なので神経を集中しなければならないので疲れる。孤立した山の中の村落を訪れたりするのも楽しみであるが、初心者や中級クラスの旅行者にはドライブは不向きであろう。


<飛び越えてスペインのマヨルカ島及びその他のバレアーレス諸島>

マヨルカと聞けばショパンとジョルジュサンドが恋の逃避行をした島としても知られるが、シチリアのタオルミーナなどと並んでヨーロッパ全域の人達から新婚旅行の地として歓迎されたとても美しい島である。ショパンが数ヶ月滞在したバルデモーサという町は、小さな教会のある海にほど近い田舎町であるが、港のあるパルマは観光地として整備されたきれいな街である。ホテルも大小を合わせて数え切れないほどであり、一年を通して春のようなこの島は多くの観光客でにぎわっている。

島の玄関口であるパルマ近辺にはゴルフ場がたくさんあり、明るい陽差しを浴びながらゴルフを楽しめる。もちろん、観光の島であり、ビジターはOKだ。プレイ代金もゴルフセットを借りて5,000円もあれば足りるだろう(2000年以前)。

バレンシアやバルセロナに面する側には海抜1000m前後の山脈が走り、海岸線のダイア(Dia)など漁港を兼ねたリゾート地にはヨットが溢れている。その北東端にはフォルメンタールという岬があり広大な庭園の中に一軒立派なホテルがある。かつてはイギリスのダイアナ妃やモナコの王女たちがお忍びでバカンスを楽しんだ場所として知られている。

島の中部から東南部にかけて、なだらかな耕地に豊かな農村風景が広がり、オレンジやレモンなどの果樹に覆われている。この島を訪れる観光客はほとんどパルマからインカを経てフォルメンタール岬に至る地域に集中している。

マヨルカ島の隣にある小さなメノルカ島は、観光地というよりむしろ田園風景ののんびりした島である。

イビサ島はバレンシアからの便が良い。1970年頃のヒッピー全盛時代、この島には、ヨーロッパ中からヒッピーたちが集まって世界的にも知られるようになった。前衛的な芸術家などが好んでこの島に住み、世界中のヌーディストが集まる島としても知られている。エーゲ海の島々と同じように、この島の家の壁は全て白く塗られている。青い空と砂浜、そして白い家のコントラストは素晴らしい。

ここまではイタリアの南北から、シチリア、サルデーニャ、バレアーレス諸島について旅人としての印象を書いてきた。次はヨーロッパ本土に戻り、ジブラルタルからコスタ・デル・ソル、コスタ・ブラバ、フランス国境までの海岸線について、そしてまた、ペルピニャンからニーム、マルセイユ、サントロペ、ニースなどのコートダジュール、イタリアに入って、東西リヴィエラ、アマルフィの海岸、アドリア海沿岸にも触れ、その後ギリシャに渡り、さらにトルコのイスタンブール、アンタルヤ、アンテオキア、シリアからレバノン、エジプト、チュニジア、モロッコまでを記述し、地中海世界についてまとめる。

地中海 太郎

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