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3. イタリアの海岸線を完走するドライブ

<リヴィエラをジェノヴァまで (ふたたびイタリアにもどって)>

マントンを過ぎれば隣り合うヴェンティミリアは指呼の距離にある。ここからイタリアであり、食生活には必ずパスタ類がついてくる。長い間フランス料理を食べ続けた後にイタリアに入り、パスタに出会ってほっとする思いは小生のみであろうか。気位の高いフランス人から解放されて気取りはあるが気楽なイタリア人に接する気がしてほっとさせられる。

ヴェンティミリアからジェノヴァまでの海岸線はリヴィエラと呼ばれる。サンレモを中心とするリヴィエラが西リヴィエラであり、ジェノヴァからラパッロを経てチンクエテッレ(5つの小さな村がある)あたりまでが東リヴィエラである。その中にはポルトフィーノやサンマルガリータなどのリゾートも含まれる。

フランス、コートダジュールの海岸の町ニースは近世までイタリアに属していた。このニースやサンレモから内陸のピエモンテ州、トリノに向かって、ニース街道と呼ばれるローマ時代からの軍用道路だった古くからの道が開かれており、この道を通って内陸からの物資がリヴィエラ海岸へと運ばれ、それらは集散地であるサヴォーナの港やジェノヴァの港から国内外に出荷されている。両港の巨大なコンテナターミナルを見てみると、そのことがよくわかるだろう。

南仏からジェノヴァに至る地中海沿いの人々の食生活は、豊かさに満ちている。この地で注目している店のひとつにパオロ・バルバラの店がある。サンレモ駅近くにあるミシュラン1つ星のこの店は、豪華なレストランが無数にあるこの地域で、奥さんと2人で切り盛りしているような小さい店であるが芸術性の高い料理を出す。パオロは若年イタリアンの注目される料理人として、近年名声を確立している。

インペリアにあるランテルナブルーのトニーノ氏の店も時折訪ねるが、伝統的なしっかりしたイタリア料理を出すことで知られている。この店には、時折、各国の元首クラスも立ち寄っている。かれはまた、インペリアで陸揚げされるマグロの卵巣からトニーノ氏独特のカラスミを製造しており、かつてイタリア料理の伝説的巨匠であったマルケージの店に大量に供給していたと、本人から何度も聞かされた。輸入商品として扱ってくれないかと頼まれたりしたこともある。

普通、イタリアのマグロのカラスミは分厚く、したがって成形するために大量の塩を使って陰干しをして作るのだが、分厚いがために中心部分は生臭くて熟成が完結せず、塩辛くてつまみなどにして食べることはできない。しかし、彼のカラスミは、塩分も控えめにして細いロープで縛り板状に薄く成型して長い時間をかけて陰干しするという独自の製法で作られている。

ランテルナブルーがある山側の一帯は、小粒にして最上質のタジャスカ種のオリーブの産地として名高い。サラダや魚介類に最適ないわゆるリグーリア産のオリーブオイルの本家本元はここにある。隣町のアラッシオもインペリアと似たような町である。いずれにしても、この周辺は、ヨーロッパのリゾート地を代表しており、素晴らしい陽光と海の青さに満たされている。

アルベンガからサヴォーナに至る地域は花の栽培が盛んであり、冬期は温室の中でいろいろな花が大量に栽培され、ヨーロッパ各地に送られている。


<ジェノヴァからポルトフィーノを経てピサまで>

ジェノヴァはコロンブスの生まれた土地で、世界中の外洋船が出入りする神戸のような町である。フリーウェイを車で走ればミラノまで2時間弱で行ける距離にある。大きな港町が持つ性格も相まって、大都市共通の喧騒があるのは当然だが、町の建物はどっしりと重厚で黒ずんでおり、リヴィエラを代表する明るいイメージはない。

ジェノヴァから小1時間海岸線を走るとラパッロというジェノヴァの金持ち層が住んでいるリゾート的性格をもつ町がある。ここはとても住み心地の良さそうな、明るくてにぎやかな町である。ラパッロから美しく可愛い庶民的なリゾート地サン・マルゲリータの町を経てポルトフィーノに入り込むと、この小さな漁村のような港に一種独特の華やかさを感じる。非常にこじんまりしていて狭い町でありながら、細い一本道を迷い込んで坂道を登ったりすれば、びっくりするほどの大邸宅や豪華別荘が点在している。丘の上にある「ホテルスプレンディド」は世界的に有名で、ハリウッドの映画スターやVIPたちの御用達である。ここはヴァカンスの時期になると、それこそ世界中から上客がやってくるため、カメリエーレもインターナショナルで、それぞれのお国柄に応じて言語も含めて対応している。このホテルはヴェニスのチプリアーニ、フィレンツェのサン・ミケーレなどのホテルと同系列である。ただ、食事に関しては超一流とは言い難い。

ラパッロ辺りから東リヴィエラのチンクエテッレまでは電車の方が便が良い。ジェノヴァ、ピサ、ローマに至るFS(イタリア国鉄)が通っており、普通列車で、絶海のというにふさわしいチンクエテッレの、他の地域から隔絶された小さな村の持つ独特の味わいが愉しめる。一度車でラ・スペツィアに至る途中、チンクエテッレの5つの村のうち4カ所まで立ち寄ったが、山の尾根から入江のある小村に入ったり出たりの繰り返しで不便この上なかった。格別な感慨もなく、崖にへばりついた小さな村々を取り囲むように繁っているオリーブの木々が印象に残るのみであった。ラ・スペツィアは、いまやイタリアを代表する港町として世界中に知られるが、元来イタリア海軍の軍港のある土地であり、それらの施設が海岸に君臨している。

エミリア・ロマーニャやロンバルディアの特産物はラ・スペツィアの港から世界の港へと積み出される。ここから斜塔で名高いピサまでは平坦な道のりが続き、途中には大理石で有名なカッラーラのむき出しの岩山が左右に広がるが、これといって見るべきものもなく観光的な価値はない。

ピサはイタリアへ旅行するものにとって魅力ある場所であり、フィレンツェの海の玄関であるリヴォルノと隣り合っている。このリヴォルノにはコルシカやサルデーニャとの定期フェリーも就航しており、交通の要所として開けている。


<ピサ、リヴォルノからローマを経てナポリまで>

リヴォルノからローマを経てナポリに至るまでは、比較的単調な海岸線で、葦の原が茂ったまま放置、未利用地になっている部分が多く、ドライブするにも単調で退屈だ。となると、この間の車での移動はなるべく避けることになる。つい列車にしたり、飛行機で飛んだりしている。ローマから電車でナポリに向かう途中の海側に、オスティア・アンティーカという土地があり(フィウミチーノ空港に近い)、ローマ時代の遺跡があちこちに残っている。このあたりは古代の歴史的背景を持つ土地柄である。ローマ時代にはオスティアの海岸からシーザーやアントニウスが世界制覇のために船出したに違いないのである。アントニウスはクレオパトラに会いたくて、はやる気持ちを抑えたに違いない。旅の楽しみは、時としてその場所に臨んで、歴史的出来事を追想することであるが、その楽しみこそ、至福のひとときであると思っている。


<ナポリからポンペイを経てソレントへ>

ナポリは南イタリアを代表する都会である。See Naples and then die.「ナポリを見て死ね」と言われるように、景勝の地である。近くにはポンペイの遺跡があり、少し足を伸ばせばソレントも近い。都市国家の時代には、ナポリ王国として独自の統治を行っており、気質や文化もそれに基づいて形成された。ナポリ人は北部のイタリア人とは際だって違っており、明るく人なつっこく時に調子が良いので面白い。これがイタリア人だと思わせるものがある。しかしながら、前にも書いたことであるが、調子が良すぎて当てにならない、信用できないという声も聞かれる。しかし、なんと言っても風光明媚な土地柄であり、抜けるような青さの海と空の色は万人をしてナポリに向かわせる大きな理由である。

初めてナポリを訪れたのは1970年初頭だが、当時、市内の車の混雑には驚かされたものである。道路の真ん中に車を止めたままにして買い物などの用足しをする人あり、逆走してくる車あり、自分の知っている限り、当時のナポリの交通の混雑ぶりは世界で最もひどかった。ここ数年の内に4~5度訪れたが、以前の混雑は緩和されてきたようだ。町はあいかわらず南イタリアの物産の集散地としてにぎわいを見せている。ここはまた、シチリアからの海の玄関口としての役割も持っている。

ナポリの満艦飾という言葉がある。一歩横道に逸れて旧市街の居住地区に入れば、ほとんどの細道で、隣り合ったビルのアパートの窓から互いに上手に物干しの縄をめぐらし、滑車を旨く利用しながら洗濯物を干している風景が見られる。散歩するときには、色とりどりの洗濯物、すなわちナポリの満艦飾の下を歩くことになるのである。生活ぶりが身近に感じられてこれはこれで楽しい。

初めて訪れたときに物騒な話も聞いた。露天の衣料店や八百屋の店先では、公然と銃やマシンガンが売られていて、警察の見回りがあると、暗黙のサインのもと、衣料品や野菜で覆い隠すのだという。なにしろ、パレルモを本拠地に持つマフィアたちは、航空や海洋の便が良いナポリも拠点にしているのだという。それゆえ、夜の町はいささか物騒な感じがすることは否めない。中でもスパッカナポリという通りは、よほど旅慣れた者でなければ避けるべき区域であった。イタリアへの旅に慣れてきた昨今は、スパッカナポリを歩いても格別恐いという思いは抱かないが、時折不気味さを感じ、そそくさと明るい場所に早く出ようとする自分に気がつくのである。

カステル・デッローヴォ(卵城)と呼ばれる石造りの堅固な建物があるサンタ・ルチア湾からヴェスーヴィオを眺めれば、ちょうど鹿児島の町から桜島を眺めたような風景で美しい。ナポリは、パスタやピッツァの本場であり、モッツァレラチーズとトマトのシンプルなピッツァ・マルゲリータは特に美味しい。

ポンペイは、ヴェスーヴィオの噴火によって一瞬のうちに古代の都市そして逃げ惑う市民たちが、火山灰に埋もれてしまったという悲劇の土地である。50年来発掘が続いているらしいが、調べてみると、西暦79年の噴火とあったので、今から2000年前の市民生活が、その遺跡を通じて手に取るようにわかる貴重な場所である。その頃すでに山から導水して水道を利用していたことにも驚かされる。馬車の車輪が石畳の上に轍として残ってもいる。歩道は、歩く人のための専用道路として整備されており、ローマ時代の浴場跡も、スチームバス等を含む立派な設備であったことを知ることができる。これらの設備が遠いローマ時代に既に存在していたことに驚きを覚えないわけにはいかない。ポンペイの悲劇は見る者をして厳粛な気持ちにさせられる。逃げまどう市民の姿が、そのままの裸形で化石した現状を見れば、思わず涙してしまう。


<レモンの花咲くソレントとカプリ島の心地よさ>

帰れソレントへの歌で知られるソレントの町はレモンとオレンジの木におおわれた陽光輝く美しい土地で、青の洞窟で有名なカプリ島を目前に控えた海岸保養地でもある。ヴェスーヴィオの麓にあるポンペイを真ん中に挟んでナポリと対面する居心地の良い規模のリゾートであり、長逗留したいと思わせるものがある。海岸の断崖上に建つエクセルシオールやシレーネなどのホテルからのナポリの夜景も見逃せない。

冬にはヨーロッパ各国から長期滞在の避寒を兼ねた客があり、夏は夏で海水浴客を満足させる設備が十分にあり、1年中を通じてにぎわっている。帰れソレントへと言われないでも、行くことができれば何度も出かけて行きたいものである。近世史上でも、この地を訪れた元帥や将軍、詩人や作家など枚挙にいとまがないくらいであり、町を歩けばゲーテのミニヨンの詩が自然に口に出てくる麗しの町である。

ソレントの中心広場から400~500メートル急坂を下って港に出れば、カプリ島への高速ジェット船をはじめとする連絡通船が頻繁に出ており、40~50分で島に行ける。マリナ・グランデの港に着くやケーブルとバスを乗り換え、断崖の上に立つアナカプリへ向かう。アナカプリへはバスもあるが、1日かけてゆっくり散策しながらこの辺りを歩くと楽しい。青の洞窟で名高いグロッタ・アズーラへはアナカプリからも歩いていけるが、マリナ・グランデやマリナ・ピッコラの港から小舟に乗って島の景色を見ながら行くこともできる。

ソレントやカプリは南イタリアの陽光に輝き、たいへんに洗練されてはいるが程良くローカル色を持ち、南イタリアの良い部分、すなわち憧れを受けとめる全てを持っていると言って良いであろう。是非訪問して欲しい、それも最低2~3泊の日程を割いて。


<ポジターノからアマルフィ海岸を経てメッシーナ海峡へ>

ポジターノからアマルフィへの海岸は、小生の最も好きな変化に富んだ美しい海岸である。オレンジなどの常緑樹と地中海の紺碧が太陽の恵みに包まれて、世界屈指の景勝の地となっている。山上のハイウェイから海岸に下る道もあるが、ここでは決して最短最速の道を選んではならない。道幅が狭くバスなどとすれ違う際に難儀することが多く、往復2車線も充分に確保されていないようなこの海岸線の道を、ソレントあるいはサレルノから渋滞覚悟でドライブすることがなにより望まれる。

レモンやオレンジがたわわに実り、その木々の緑と、ティレニアの海の碧とそれに反射する太陽の光線が目の前に広がる、断崖の上にある無数のカーブを徐行しながらドライブすれば、カンツォーネが自然に口をついて出てくるであろう。

アマルフィはかつてイタリアが都市国家であった頃、中世ピサやジェノヴァ等とならび、地中海の覇権を競った王国として存在した輝かしい歴史を持つ美しい古都である。アラブやサラセン、カルタゴの影響をもろに受けた痕跡があちこちに見られる。優美なヨーロッパ様式とは違って、何とも言えないドーム形式の建物が異国情緒をかもし出している。

いまでこそ、通信や交通の便が格段と進歩して、この地に暮らすことはさほど不便を感じないが、ここの地形、地勢というものは比類無いほどの断崖、絶壁で他の地域から隔絶されており、車など無かった時代には、陸上を通じての交通がほとんど不可能で、海に出るしか活路がなかったかも知れない。また、地中海を往来するサラセンやビザンチン、カルタゴ、フェニキアなどの商人や軍人などにとっての格好の避難港であったかも知れない。少しばかり陸上の交通の便の良さがあると、進軍する兵の略奪などを招きかねないが、この地形は城壁に囲まれたような自然の要塞都市として機能したのではなかったかと想像する。あれだけの直立する断崖に囲まれた土地ゆえに、良港が確保されて、海に出ればシチリアでもカルタゴでも、またはイスタンブールなどのビザンチンの世界にも、難なく行けたのである。ここに住む人は、海に活路を求めざるを得ない地勢のなかで生まれつき海洋に馴染み、地中海に君臨することができたのではなかっただろうか。とにかく、この周辺の海岸線の完成された景観の美にはただただ酔いしれるばかりである。

アマルフィを出れば1時間あまりでサレルノに着く。

ここでアマルフィ海岸を走る場合の所要時間について述べる。ソレント-サレルノ間はおよそ70キロメートルくらいであるが、所要時間は3時間から5時間かかる。所要時間に幅があるのは季節と時間帯によるからである。地図上では極めて近い距離にありながら、絶壁の間にヘアピンカーブの狭い道が延々と続き、渋滞によって時速10~20キロメートルの低速で走らなければならない区間が多く、よくもまあこのような岩壁に道を作ったものだと感心させられる。バスなどが何台か続くとすぐに渋滞がおこってしまうのである。車外の景色を眺めたり、適当に車を停めてみたり、アマルフィの町やポジターノの町の中に入ってみたり、1日かけてゆっくりと旅をするのが良いかと思われる。

サレルノもアマルフィと並んで海洋に活路を求めざるを得なかった土地である。しかしアマルフィ王国と違い、比較的穏やかな地形であり、ナポリや内陸都市、また反対側アドレア海にいたる道を通じてプーリア州へ、そして南下してカラーブリア州のコセンツァなどにも道が通じていたと思われる。アマルフィに似た良港を持つ地形に加えて、広く後背地を持っていたことから、アマルフィ王国よりさらにひとまわり大きな王国を形成していたのではないかと思われる。サレルノ王国は中世において、ピサ、ヴェニス、ジェノヴァなどの都市国家に迫る海洋国家であったことは推して知るべしである。

現在では、サレルノといえば、野菜、とりもなおさずトマトなどを始めとする乾燥野菜の一大生産地として他を圧している。

サレルノからティレニア海沿いに、メッシーナ海峡に至るレッジョ・ディ・カラーブリアまでの間は、狭い海岸線もあるが、全体的には農業栽培にも適する広い耕地を持つ比較的単調な海岸線である。カターニアからナポリまで昼の電車に乗ってこのあたりを何度か通過したことがあるが、格別な印象はなかった。ここではむしろ、アペニン山脈の南端沿いに走る形でハイウェイができているので、これを利用すると良い。小生はバジリカータ州のポテンツァやカラーブリア州のコセンツァなどの、いわゆる南イタリアの生活を垣間見るべく、時折、意識的にフリーウェイを離れ、1時間か2時間に限って、地図を見ることなく旧道と思われる道を走り、古くからの村に出たり入ったりをくり返したことがある。道路を走りながらもわかったことだが、日本で言えば妙義山や荒船山に似たようなニードルマウンテンがとっこつ突兀とする間を縫って道路が走っている。谷間に沿って点在する村と村が延々とポテンツァあたりからカタンツァーロまで続くこの周辺の生活は、他からは隔絶されている。一旦旧道に入り込んだ時から方向感覚が失われるくらい、山と山の間をかいくぐって各村落に達するのである。高速道路が完成される以前は、各集落間はそれぞれ断絶して生活を続けてきたのではないかと想像される。一旦犯罪などでこの地に逃げ込まれたら司法の手も届かない土地だったのではないだろうか。

このように切り立った山と山の間に点在する南部のバジリカータとカラーブリア州は耕地が少ない。各小村は封建的因習に縛られていた土地柄であったように思われる。余談ながら、この地はイタリアの負を代表するコーザノストラ(マフィア)同様に凶悪な犯罪集団があって、その悪名高い組織のことをヌドランゲタということは、章の始めの方で述べたが、昔からイタリアで誘拐殺人事件があれば、遺体はカラーブリアやバジリカ-タの山の中から出てくると言われている。もちろんこの地域の皆がそういう風では無いことを記しておかなければならない。

レッジョ・ディ・カラーブリアの町は、シチリアのメッシーナとほとんどくっついている感じだが、間にメッシーナ海峡がシチリアとの境を成している。シチリアのことは概略触れたので、ここから再びコセンツァからイオニア海沿いにプーリア州ターラントの町に入る。


<ターラントからレッチェ、十字軍の拠点都市バーリまで>

ターラントは新旧市外の町並みがはっきりとふたつに分かれている町である。20数年前に初めてここを訪れたとき、旧市街の町の中に入り込むと、ナポリの満艦飾と同じように建物と建物の間の路地には洗濯物がはためき、一目瞭然にして貧しいことがうかがわれ、それだけに生活の痛みが分かり合える共同体のようなものも感じられて、とても心やすまる土地柄のように思った

元来ターラントの町はシチリアのシラクーザに次いでギリシャの植民都市として数十万の人口を抱える町であったと聞くが、今は旧市街を見る限り、盛時の華やかさは見られない。点在するビザンチンの影響を受けたと思われる町並みは寂寥に満ちて、南イタリアの貧困を垣間見る思いである。プーリア州はイタリアのかかと、アキレスのかかと(最も弱い経済を持つ地域)と呼ばれ続けてきた故に、打ち捨てられた海辺の未利用地が多くあったが、その部分に1970年頃から製鉄所や化学コンビナートが形成され始め、近年、町並みが一変してきている。今ではトリエステからヴェニスの玄関メストレに至るまでの間のコンビナートや、リヴォルノ近辺の工業地帯をも上回る規模になっている。湾に架かる橋を渡り新市街地に入ると、町並みは一変し、立派に整備されていて見違えるようである。今やギリシャの植民地時代を凌ぐかと思われる数十万人口の近代都市が形成されており、道路は碁盤の目のように区画され、海岸には遊歩道が造られている。日本からも技術提携のエンジニアなど、かなり多くの人が滞在していると聞いた。ただし、区画された新都市は、どこでも皆同じように何日か滞在すると、飽きが生じてくる。これから述べるプーリア州のバーリの町にしても、立派なバロックの町ピエモンテ州のトリノにしてもそうだが、生活しやすい立派な町は、旅をするものにとっては面白みに欠け、つまらないと感じる側面があることは否めない。

レッチェの町は前述のターラントの新市街とは違いは、縦走する町並みと迷路のような町並みで混沌としているようでいながら気品のある飽きのこない町であり、この地方きっての香り高い文化が感じられる。また行きたいと思わせる町である。

ローマから始まるアッピア街道終点の町ブリンディシは、歴史を感じさせる重厚な石畳の町だ。かつてバーリと並んで十字軍の基地であり、エルサレム巡礼への出発点でもあったこの町は、今は寂れて静かである。ここからギリシャのパトラスの港まで20時間近くかけてフェリーで渡ったことがあるが、イタリアからギリシャへの旅には便利な港町である。


<アルベロベッロ雑感>

ブリンディシからバーリに行く途中、内陸に少し入ると、三角錐のとんがり帽子を思わせるアルベロベッロの町がある。イタリア特集に記載された写真などを見て立ち寄ってみたが、確かにユニークでおとぎの国に入り込んだような不思議な雰囲気の建物群であった。ガイドブック等で南イタリア必見の地とあったので、期待して訪ねてみたのだが、普通の町の中の面積で言えば東京ドームくらいの一画に、70~80軒前後のトゥルッリ(三角錐の屋根)が立ち並んでいて、どこかのテーマパークかおとぎの国を訪ねたような気になったものである。戦乱などの風雪を経ていないこの集落は、しかしながら、しっとりとした情緒や深みに欠けていてつまらない。この特異な童話的なとんがり帽子の町はそれなりに必見の価値はあるかも知れないが、一度行けば充分である。

バーリからペスカラを通ってリミニに至る海岸沿いの通りには、とんがり帽子ではないけれども、従来のイタリアやヨーロッパではないビザンチンやアラブのにおいのする特異な建物が延々と点在し、異国情緒を感じさせてくれる。もう少し内陸に入れば、マテラという洞窟生活の集落があると聞いている。機会があれば行ってみたい。


<バーリからビザンチンの古都ラヴェンナまで>

バーリの町は、プーリア州を代表する都会である。町並みは碁盤の目のように整備されており、イタリア中のブランドがそろった商店街があり、町は活気に満ち満ちている。小生にとり、区画された町並みはどこを歩いても一様な感じがして、1~2泊しても特に面白みを感じない町だと思った。例に漏れず、旧市街地は迷路のようで意外性があり楽しみもあるが、基本的にこの町は貧しいプーリア州にあって、一番の豊かな商業都市であるとの印象が強い。

南部イタリアにあってプーリア州はバジリカータ州やカラーブリア州と違って地形がなだらかに広がっており、その丘陵には生産量でイタリアの大半を占めるオリーブが植栽されている。その合間にはラグビーボールのような形をしたサンマルツァーノ種のトマトやフィノッキオ(ういきょう)、カルチョーフィ(アーティチョーク)が植えられていて、北部のパダナ平野を思わせる豊かな農業地帯である。しかしながら、北部イタリアと違って太陽の光線は強く、植物によっては夏枯れで成長が難しいものがあると聞いている。大地深くに水分と滋養を求めた限られた植物のみが育つのである。そのような植物は、香りが強く、たくましい野性味にあふれている。

バーリを離れてペスカラに向かう道は平野部を単調に通り抜けている。途中無数の海岸リゾート地がある。別荘用なのか、中近東やチュニジアなどの北アフリカ的な雰囲気を持つ建物が、それなりの間隔で点在しており、我々が予想するヨーロッパ、イタリアの町並みとは打って変わった印象を与えている。このアドリア海に面する東部イタリアの海岸は、ティレニア海に面する西部イタリアとはまったく異なった、淡々とした平野がペスカラあたりまで続く。ペスカラから先のリミニ-アンコナの間は、ドライブ、列車を含めて未踏の地である。

ラヴェンナの町はビザンチンの芸術が集大成されたような雰囲気のある荘重さを持つ町である。モロッコのフェズのモザイクも有名であるが、ここラヴェンナのモザイクはキリスト教に由来する物語が多く描かれており、カトリック教徒やギリシャ正教徒には、たまらなく貴重な財産であろうと思われる。フィレンツェで迫害されたダンテがこの町で「神曲」を書いたことは有名で、ダンテの墓には今でも灯明が絶えないと物の本で読んだ。

この町からは、切手で有名なサンマリノはすぐ近くだ。また交通の要衝であり、美食の町として知られるボローニャは車で1時間足らずである。ヨーロッパでも最古を誇るポルティコ(柱廊のアーケードの町)の町ボローニャについては、書くべきことが多すぎるので他に譲り、ここでは割愛させていただく。


<ラヴェンナからヴェニスに至る道>

ポー川の氾濫により形成された低湿地帯がラヴェンナ-ヴェニス間に広がっており、一見荒涼とした風景の中に工場などが点在しており、あまり楽しいドライブは期待できない。むしろ、ボローニャから近い内陸に入ったフェッラーラの町を経由するのが良いと思われる。ご存じ、イタリアの歴史上でもっとも有名な女性イザベラ・デ・エステの生まれた町である。イザベラ・デ・エステは、マントヴァのゴンザーガ公爵家に嫁ぐまで、赤い煉瓦づくりの町並みがとても美しい中世を思わせるに十分な、印象深いこの町で育ったのである。フェッラーラのイザベラは、マントヴァに嫁いでからは、フィレンツェのメディチ家の向こうを張って芸術家を育て、文化人を集めてマントヴァの町にルネッサンスの花を咲かせた。このことについては塩野七生氏の書いたイザベラ・デ・エステについての物語を読むことを是非お薦めする。氏の手になるヴェニスについての「海の都の物語」や「チェーザレボルジア」や、メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコの物語は実に素晴らしく、鮮やかな描かれ方である。日本人の手になる近世まれな名著であると思われる。イタリアの成り立ちや中世から近世までの歴史については、これらの書物に頼るのが一番であり、現在のイタリアに興味を持つものは、その成り立ちを知る上で是非これらの書物に目を通すべきだ。歴史学者が書く史実を羅列した書物は、読むのに疲れてしまい退屈でなかなか馴染めなくても、これらは三国志を読むのに似て、飽きがこない。物語としても現在第一級のものと思われる。


~ 閑話休題   イタリアの道路事情 ~

イタリアの国道、主要地方道は良く整備されているが、枝道に入った場合、特に山岳地帯などでは稜線を間違うと、とんでもない場所に出かねないので要注意である。イタリア人は格別スピード狂が多いので驚くが、高速道路では十分に注意をしているので安心して走れる。むしろ、地方道を走るときに猛スピードを出す車が時々見かけられるので、あわてずに対応することが必要である。スピード感覚に優れている彼らは、信号や規制を無視したりすることもあるが、彼らなりに運転に慎重であり、そのわりには事故が発生していないように思われる。ただし、ナポリやパレルモなどでは無謀運転が多いので注意が肝心である。

イタリアの高速道路は1960年頃に開通した。ミラノからローマに至る道路が最初の高速道で当時「太陽の道路」と呼ばれたそうだ。出来て間も無い頃にバスに乗ってローマまで乗車したことがあり快適さに驚いたものであるが、今走ってみるとガイド標識も悪く道路も老朽化しており、あちこちで工事が行われている。また、スイス、フランス、ドイツへ物資を運ぶための幹線道路でもあるため、トラックや巨大なトレーラーが連なって走っていることが多く、運転するのに非常に疲れる。今では新しく出来た地方道などの方がはるかに快適である。

イタリアの中で特にナポリは気をつけて運転しなければならないのだが、目的地が判りにくいのはローマ市街である。日本の城下町の構造にも似ていて行き止まりがあったり、一方通行があったりして目的地の近くまで行ってもなかなかたどり着けない。七つの丘があり曲線道路を一本間違えれば全く別の方向に向かっていることがある。テベレ河やサンピエトロなどのランドマークはあるのだが、それ以上に高い建物が無いので七つの丘の陰になって目標を見失ったりする。

このような時はいらいらして事故の原因にもなりかねないので十分な注意が必要だ。どうしても目的地にたどり着けない場合、小生はタクシーを捕まえて先導してもらうことにしている。タクシーを捕まえ住所を渡して走ってもらい、後をついていくのである。このやり方を覚えればパリでもミラノの大都会でも難儀することはないので気が楽になることは間違い無い。旅先での時間的ロスは旅費などを考えれば高くつくので、少しばかりのタクシー代はケチってはならない。



<ヴェニスから旧ユーゴスラビアとの国境の町トリエステへ>

大学都市といえばパドヴァと言われるほどのイタリアきっての学問の町パドヴァは、ヴェニスの玄関と言える位置にある。かつてはガリレオ、コペルニクス、ダンテそしてペトラルカなどがここで教鞭をとったことがこの大学に重みを加えている。この周辺の地域は、ポー川の運ぶ肥沃な土壌によって大地は豊かである。北イタリアを代表する農産地域と言っても過言ではあるまい。

海岸線から外れて内陸部に少し入ると、ヴェニスとミラノの間にロミオとジュリエットで知られるヴェローナの町がある。とても落ち着いた上品なたたずまいはイタリアの地方都市の中でパヴィア等と並んで、生活してみたい都市の一つである。周辺にはガルダ湖などの景勝地もあり、平坦なパダナ平原の沃野に変化を与えてくれる。ローマ時代のアリーナの跡は、完璧に近い状態で残っており、夏には野外オペラが開かれることでも世界的に有名である。

さて、世界的に有名な観光都市ヴェニスに入ることにする。

ヴェニスの成り立ちは、寒冷のための凶作により飢えに直面したアジアのフン族の流れを汲む白フン族といわれるエフタルの進入が玉突きのようにゲルマン民族の大移動を引き起こし、ゴート人、ロンゴバルド人などによる侵略や虐殺を恐れたこのあたりに住む人々が湿地帯の葦原を埋め立て、運河を開削して次第に浅瀬の海上に町づくりをした結果である。海中に打ち込んでも腐ることのない松の木を無数に打ち込んで、運河を開削するために浚渫(しゅんせつ)した土砂で埋め立てたこのヴェニスの町では、海で生きることの習熟を否応なく積まざるを得ないことになる。

ヴェニスの人たちは、造船技術や繰船技術をマスターして、北方からの侵略を水際で撃退するようになって初めて平穏に暮らせる状態になり、その後船団を組んでアドリア海や地中海の制海権を確保し、遠くイスタンブールに進出することによってヴェニス共和国としての基礎を築いたのである。2人の商人がエジプトのアレキサンドリアから聖マルコの遺物をヴェニスに買い取って持ち帰って以後は、それを目当てに巡礼者が絶えることなく訪れるようになり繁栄への道を歩んだのである。

ヴェニスの島々はすべて人工島であって、ここには農業生産のための耕地は一切無い。あらゆる人々が貿易に従事するか、海事に就くか、工芸職人として生産に従事していたのである。ブラーノ島においては、留守を守る婦人たちのレース編みが洗練されていき、ムラノガラスはヴェニスの工芸品として世界で珍重されるようになった。このようにして同じ生産でも付加価値のある商品を作ることによって、商人たちが世界中にヴェニスの工芸品を売り歩いたのであった。その結果、他の第一次産業など主として農業による経済に依存する土地とは違い、生産された商品を扱う商人がたくさんいる町になり、その結果ますます商人感覚が洗練されて、交渉術などに秀でた才能が育ったのである。かの有名なヴェニスの商人の誕生である。世界史上どこにもないヴェニスの特殊性がそこにある。

近世に入ってトルコ軍に東地中海の制海権を奪われ、その後ナポレオンによって征圧されるまでの1000年間の、繁栄を続けたその余熱だけでも現在のヴェニスが存続しうると言っても過言ではないであろう。

何度もヴェニスに行ったが、最初はその素晴らしさにただただ驚くばかりであったのだが、慣れるにつれて、だんだんとヴェニスの商人のなんたるかを体感したような気になってきた。観光客にとってこれほど見ごたえのある町も世界中にないが、ヴェニスに足を踏み入れたときから帰るまでの間、ついつい良い気にさせられ、あれやこれやと自然にモノを買う気持ちにさせられる。ホテルやレストランや水上タクシーやゴンドラに至るまで、知らず知らずのうちに出費がかさみ、イタリアの中でも一番金のかかる場所がこのヴェニスということに気がつく。後から考えてみれば、有り金残らず使い尽くすほどに、財布の紐をゆるませる、否、ゆるませられるのは何故だろうか。何度訪問しても、その都度ヴェニスは高くつくことを実感する。そこのところにヴェニスの商人の真骨頂を見せられたような気がする。

若年の間は、財布の中身が乏しければ乏しいなりに愉しめるが、50才を過ぎると、安宿にまで泊まって旅をする気持ちにはなれない。ヴェニスを訪れる場合は、目をつぶって出費を覚悟するのでなければ愉しみも半減するであろう。どうせなら、国内の一流ホテルや温泉旅館で散財するのを抑え、グリッティパレスやダニエリ、チプリアーニなどの快適ホテルに数日以上滞在したいものだ。

小さい地域でありながら、興亡著しい地中海世界において1000年の間、都を維持し続けたヴェニスは、世界中どこにもない栄光の歴史を持っている。しかしナポレオンに制圧された後には、退廃の時代があって、風紀は乱れに乱れ、ヴェニス全体が遊郭のようになったことがあると言われている。その結果、娼婦が失業せざるを得ないほどの状況の中から、稀代の色事師カサノバを生んでいる。ヴェニスを象徴する仮装用の仮面などは、その当時の退廃淫乱の町の残滓(ざんし)のように思えるのはうがち過ぎであろうか。

ヴェニスはサンタ・ルチア駅が終着駅であり、同時に始発駅ともなる。鉄道(車の道もある)を通ってヴェニス・メストレに出る場合は、その間15分くらい堤防の上を数キロに亘って両側に海を見ながら行くことになる。ヴェニスが海上都市であることを実感できる良い機会である。

メストレを過ぎてアドリア海沿岸を東に東にと行けば国境の町トリエステに至るのだが、その間、電車または車とも車窓風景に海を見ることはほとんど無い。湿地帯などの海抜ゼロに近い状態が延々とトリエステ近くまで続くのである。トリエステが近くなると、左側に岩山などが次第に険しくなって来て様相ががらりと変わる。世界大戦の後に構築された鉄のカーテンと呼ばれた政治的体制の国境の終点でもある。ドイツ、ポーランドの国境の都市ステッテンからユーゴスラビアとの国境のイタリアの都市間に及ぶ鉄のカーテンが自由主義の国と共産主義の国々の間に非情にも存在していたのである。鉄のカーテンとの名付け親は、かの英国の宰相ウィンストン・チャーチルであることは論を待たない。

したがってこの町はかつてのウィーン華やかなりし頃、ハプスブルグやハンガリア王国などの物資を集散する港湾都市として繁栄した都であって、ありとあらゆる公共施設が完備されており、町並みもバロックなどのクラシックな建物で造られており、風格を感じないわけにはいかない。現在はしかし、どこかうらさびれた印象が否めない。古き良き時代の栄光を引きずっているような感じがある。

保険で世界的に有名なロイドはこの地が発祥の地であり、世界の保険業界に今でも君臨している。それだけ海上荷物の取り扱いが多かったのであろうことは予想に難くない。現在ではIlly(イリー)のコーヒーが、この地から世界中に広まりつつある。

いずれにしてもこの町は旧ユーゴやハンガリー、オーストリアなどの物資を運ぶために便の良い港があったため、各国の民族が入り込んでいる。マジャール人、セルビア人、クロアチア人、スラブ人、ドイツ系の人々など、他民族が集まってつくり出す雰囲気は一種独特のものがあって、しかも、かつての栄光をバックにした気位の高い人達が多いような印象がある。

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