スペインのカディスから始まってコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)、コスタ・ドラド(黄金の海岸)、コスタ・ブラバ(勇者の海岸)そしてコートダジュール、リヴィエラを経てティレニア海、イオニア海、アドリア海からギリシャ、トルコ、シリア、レバノン、さらに北アフリカのエジプトからモロッコに至るまでがいわゆる地中海沿岸である。
ここで地中海からは外れるが、少し範囲を広げてビスケー湾に沿ったフランス南西端のバイヨンヌ辺りからポルトガルの大西洋岸を経てカディスまでの道を見てみたい。これにより、イベリア半島の全海岸線を走り抜けることになる。イベリア半島の地中海沿岸以外についても記述することで、地中海沿岸地域と大西洋岸地域を対比させることもできると思われる。
<バスクからカンタブリア海をガリシアまで>
平地の沃野に重々しい町並みを見せるボルドーから車で1時間位で、バスク人の街バイヨンヌ、そしてビアリッツに入る。ビアリッツは清潔でとてもきれいな可愛らしい小さな街である。日本の若い女性たちが好みそうな街で、一度は訪ねてみたい場所である。そこから車で30~40分も走ればスペインのサン・セバスチャンに着く。この街を訪ねたのは4度であるが、叶うことなら、この街に生まれ住み着きたいと思わせるものがある。
スペインの街の中でも特に気品に満ちて海山の幸に恵まれたサン・セバスチャン(今はバスク語でドノステアと呼ぶ)は、バスク地方の州都でもある。王政華やかなりし頃の夏の離宮があるところであり、マドリッドを中心とするカスティーリャ地方やアンダルシアのような酷暑はなく、気候も凌ぎやすい。四季の変化もあって、スペインに対して抱く乾燥した大地というイメージはない。概してバスク地方では、緑が豊かで日本の地方都市にいるのではないかと思われるほどの自然がある。
通常日本人がバスク地方について知っていることといえば、バスク解放戦線などの政治的テロ、そしてテレビなどで取り上げられる素朴な丸太切り競争や力比べ大会などであろう。しかし、他にもまだまだ知られていないバスクの良さはいっぱいある。
サン・セバスチャンからビルバオを経てサンタンデールに至るバスク地方は、工業地帯特有の喧騒を除けば、スペインでも最も豊かな経済を持ち、人々の暮らしにも余裕と誇りがあり、生活空間も美しくとても快適な場所である。食べ物も格別に美味しく、ワインもボルドーが近いので良質のものが格安で手に入り、まことにうらやましい場所である。加えてビスケー湾でとれる魚介が豊富なのと、フランスに接しているせいか、料理やサービスがフランス風にアレンジされて、言うこと無しである。
サン・セバスチャンは小生の今までの旅行で探し当てた最もお気に入りの都市である。マドリッドやバルセロナなどの主要都市をめぐり飽きた方には、小生はここを訪れてみることをお薦めする。いまやスペイン料理の出し方としてピンチョスが普及しているが、これなどもサン・セバスチャンが発祥の地であると聞く。アルサックなどの名店もある。東京神宮前のスペイン料理店ポコ・ア・ポコのオーナー夫妻も先年サン・セバスチャンを訪れて以来、その虜になったように思われる。小生自身イタリアと並ぶくらい何度もあの大きなスペインの全土を縦横に走る道をドライブしているが、ポコ・ア・ポコの夫妻のスペイン好きとスペイン事情の明るさにはとても及ばない。
さて、サン・セバスチャンを過ぎて、ビスケー湾沿いにカンタブリアを西に進めば、ビルバオ、サンタンデールと続くが、この地域はスペイン内戦などの戦争によって激しい空爆を受けた土地である。今は近代工業化されてスペインの経済の根底を支える重要な地域である。いわく、ビルバオ銀行やサンタンデール銀行などは全スペインの金融を支えている。
豊かなバスク人は、自分たちは生活の厳しい灼熱のアンダルシアや内陸中央の赤茶けた乾燥した台地ラ・マンチャのために納税しているのではないと言い、納めた税金は自分たちで有効に使いたいと主張している。これは、ちょうどイタリアの北部地方が南イタリアに対して持つ不満と同じように思われる。
バスク地方について語るとき、バスク解放戦線の存在を切り離しては考えられない。フランコ政権以前はバスク語が公用語であり、フランコ総統によってバスク語の使用が禁止され、フランコ没後の現在では再びバスク語の教育が盛んに行われている。これはバルセロナにおけるカタルーニャ語復活とも共通している。
余談になるが、緑多いバスク地方には立派なゴルフ場があり、マスターズで優勝したセベ・バレステロスやオラサバルもこの地の出身である。小生もゴルフ場を訪れたが、コスタ・デル・ソルなどにある観光地のゴルフ場とは違い、完全にメンバーへの同伴が求められる格式の高さで、ビジターとしてプレイはさせてもらえなかった。
サンタンデールのカンタブリアを出てアストリアス地方からラ・コルーニャに至る海岸線の道は単調で、特別な感慨はない。あえて言えば、ビスケー湾からの風が相当強く小さな自動車で走っていると、風に持って行かれそうになることであろうか。毎日強風が吹きつけるわけではないにしても、風の通り道であることは周辺の景色や様子からも察せられる。(オビエド周辺)
ラ・コルーニャでは途中山越えをしたが、全山ユーカリの樹木に覆われていると言っても良く、ユーカリ特有の香りの中を進むことになる。ラ・コルーニャはかつて、青の時代前のピカソも滞在したところであり、スペインの最北西端に位置し、ビスケー湾と大西洋に面した街である。魚介類の幸に恵まれた古くからの街であり、ゆっくりと滞在するのも良いと思われる。ラ・コルーニャの情景として、海岸に面して立つ家々、アパート群の風よけのガラス窓が太陽の光を受けてキラキラと輝く一種独特の雰囲気のある光景を忘れることができない。これは、マンションのベランダ全面をガラス窓で覆い尽くした感じと言えばわかりやすいと思うが、想像するに、強風よけのためと、冬の太陽の恵みを効果的に取り込むためのものであろう。
ラ・コルーニャから、カトリック教徒の巡礼の地として世界的に名高いサンチャゴ・デ・コンポステーラは車で30~40分の距離である。古くから巡礼者を惹きつけたこの地に至る道は、内陸に向けてあらゆるルートがひらかれている。
ビゴはポルトガル国境に隣接する漁業の街で、エル・コルテ・イングレスといったスペイン最大のデパートもある地方都市である。坂道の多いちょうど長崎のような地形であり、スペインを代表する漁業や水産加工の盛んな土地である。目抜き通りの街路にはさくらの並木道がある。これは水産業などを通じて日本との親睦があるため植えられたのかと想像している。(桜の満開時に訪れたことがある)
<ビゴからポルト、コインブラを経てリスボンまで(列車の旅)>
ビゴを出発した列車はほどなくして大きい川を渡り、国境を越えポルトガルに入る。ビゴを出て約1時間でポルトの街に到着する。ポルトは古くからポートワイン発祥の地として、日本に初めてワインが紹介された頃より広く知られている。かつてエンリケ航海王子の頃より、バスコ・ダ・ガマなどが世界で活躍し、隆盛を誇ったポルトの街も、今や見る影もなく寂れてわびしい感じがする。このことは、ポルトに限らず、ポルトガル全体を通して感じられることであり、哀愁を含んだファドがその雰囲気を象徴しているように思われた。
リスボンへの途中で大学都市として屈指のコインブラにも立ち寄ったが、坂道の多い落ち着いた街はそれなりに旅情を満たしてくれた。ただし、夏の時期なのか、名物の黒マントを着た学生には会うことができなかった。
ポルトからリスボンに至る列車からの風景は、平野部が多く、農産物も豊かそうであったが、その生産効率が低いのか、EU市場においても格別なシェアはないようである。海の幸も豊富と思われる。アイスランドなどで獲れた北大西洋の日干し塩ダラ(バカリャオ)の生産はスペイン同様に豊富で、輸出されている。
旅行者にとって馴染みやすいのは、ナザレのひなびた漁村であろう。海岸の砂浜いっぱいに広げられたいわしとあじの干物作りは日本のどこにでもある漁村を思わせ、心安く、なつかしいものがある。終日のんびり潮騒を聞き、大西洋の落日をみながら、炭火焼のいわしをほおばることは、素朴な安らぎに満ちた至福のひとときである。また、大西洋に落ちる夕日の荘厳な雰囲気は素晴らしい。ナザレの町では中年以上の女性が黒ずくめの衣装を着て海岸で魚を干したり、路地裏で家事をしている光景を見かける。これは航海や漁業のために荒海で遭難死した人が後を絶たず喪服を脱ぐ暇さえも無かったことに起因していると聞いている。
リスボンは坂道が多く港近くに中心街があり、山の手に向かって右側のアルファマ地区、左側の歓楽街バイロアルトに分かれているが、真にリスボンの庶民生活を知るなら、右側のアルファマの方が生活を間近に感じることができる。息を切るような急坂の路地裏を訪れると、洗濯物などが窓辺に干されており、その生活が質素なものであることがよくわかる。また、うす暗い電灯が夜霧に溶け込んだ風景は情緒たっぷりである。その上、地元の人々が利用する居酒屋で、いわしの炭火焼きをかじりながら、客の間から自然に歌われてくるファドを聞けば、ああ、はるかな旅路をリスボンまで来たという気がする。
車でスペインのバダホスからリスボンに入るときは、海かと思えるテージョ川(タホ川)の長い吊り橋を渡ることになるが、この光景はまったく素晴らしい。海越えに(実際はテージョ川)リスボンのほぼ全景を眺めることができるのでお薦めしたい。加えて言うならば、スペインのバダホスから黄昏時に西行きしてリスボンの町に入ればその感動は忘れがたいものとなるであろう。
シントラはリスボンからほど近い、以前は王室の別荘のあった場所である。一般観光客に開放されているが、規模の小さいかわいらしい別荘がある。したたる緑が周辺をカバーしており、心安らぐ場所である。王室の別荘とはいえ、フランスや他の国のもの違って、豪華さのない素朴さが居心地の良さを醸し出しているような感じがする。
シントラからファロの岬(最南端)を経てカディスまでの間は小生にとって未踏の地であったが、干タラ市場の視察もあって急にポルトガルに行くことになったので2001年1月に、スペインのカディスから西にコースをとり、ファロを経てリスボンまでドライブをしてきた。ファロで空港の離発着案内を見ると、イギリス特にスコットランドからの便が多く、英国人の観光客用なのかゴルフ場が多いことに驚いた。
同行の石谷氏と何処かでゴルフをしようかということになり、結局ロカ岬の近くで日本企業の青木建設が経営するゴルフ場でプレイをした。コースはともかく、そこのクラブハウスの巨大で豪華なことに、ジャパンマネーの持つ偉大さを感じたが、これだけの施設をよくも維持経営出来るものだと感心した。このコースはF―1レースの公式サーキット場に隣接しており、爆走するレースカーのエグゾーストノートがゴルフプレイを妨げるようであったが、耳に心地よく今でも思い出すほどだ。料金は日本並みに高く、予想外であった。
ポルトガルの気質はスペインとはまったく違う。イタリアと比べて対極にある感じもする。内気で自分の欲求をあまり表に出さないで、対応も穏やかで優しい。ところが驚くことのひとつは、この内気な人達が車のハンドルを握ると、非常に荒っぽい運転をするのである。スペインからポルトガルに入った途端に、運転の荒っぽさに驚かされることになる。無理な追い越しや割り込みなどが多く、他のヨーロッパ諸国での運転の様子と大きく違って、運転にはかなり神経を使わなければならなくなる。殊に旧リスボン市街を取り巻く周辺のフリーウェイは交通量も多いので気を使わなければならない。
しかし、いずれにしてもポルトガル人は心根が優しく、自己主張を抑える点では日本人とも似ている。闘牛は盛んだが、ポルトガルの闘牛はとどめを刺すことはしないと聞く。料理もスペインと比べればフランス的に柔らかい味付けになる。交通機関に関しては、列車は乗り心地が悪く、道路は凸凹があり快適ではない。
<カディスからミハスを抜け、コスタ・デル・ソルへ>
1960年代の後半、アメリカの留学の帰りにカサブランカを訪れてみたいと思い、それを実行した。その帰途、モロッコのタンジールから船でジブラルタル海峡を渡りカディスに上陸したのであるが、それが小生のスペインへの第一歩であった。以来、スペインに惹かれてすでに20回以上訪れている
カディスは遠洋漁業の基地もあることから、セニョリータがうろ覚えの日本語で頻繁に声をかけてくる。聞くところによると、グランカナリア諸島のラス・パルマスには日本からの漁船団が入り込んでいて、その玄関先の役目を果たしているらしい。近くにはシェリー酒で有名なヘレスの町がある。重厚な石畳の道にはシェリーで富を築いた酒造家の屋敷が続いており、世界に冠たる食前酒のシェリーの街だと感じる。
以前にスペインに留学したことがある妻から、ヘレス近郊にプエルト・デ・サンタマリアという小さな漁村があって、土地の食べ物(魚介類)をふんだんに食べさせてくれる屋台村があると聞いていた。週末になるとまわりの町や村から家族連れがやってきて、深夜遅くまでたいへんにぎわう場所だとのことだったので、2001年に近くのへレスまで出張した折に立ち寄ってきた。よくスペインには出かける小生だが、少し不便なプエルト・デ・サンタマリアまでわざわざ物見遊山のために行く気にはなれなかったのだが、ここは魚好きの人には是非立ち寄るべきところと痛感した。この町は日本では無名に近いが、スペインが海洋に覇をとなえた頃から出世した船主たちがその余生を過ごす土地として有名なのである。余程好漁場に恵まれているとみえて港や河口には大型のフィッシング・ボ-トが無数に係留されている。温暖な気候とあいまって長期に滞在したいと思わせるに充分である。へレス(シェリー酒)の醸造蔵(ボデガ)のある町並みも重厚な印象があって訪問すべき穴場である。揚げた魚や茹で上げたカニ、海老などを食べるときのお伴はもちろんヘレスである。
最南端のジブラルタル海峡に面してアフリカ大陸に最も近いところにタリファという小さな町がある。かつてジブラルタル海峡を通過する船舶から通行税を徴収した町タリファが、タリフ(関税の意味)の語源ともなっている。ここはジブラルタルの海流が大西洋に合流する地点であるが、その影響からかものすごく風の強い場所としても有名である。何百基とも見える風力発電装置(ウィンドファーム)は、小生の知る最大クラスのものと記憶している。デンマークなど北海沿岸のそれも大規模ではあるが、タリファのものは印象的である。
ここから少し東に行くとアフリカ大陸への玄関口アルヘシーラスの町がある。いかにも国境の町らしく、混沌とした喧騒が支配していて、それなりに心ときめくものがある。7、8年前にパリ・ダカールラリーの都市間移動のツーリングと遭遇し、マラガから彼らの列の中に入り、アルヘシーラスからそのままフェリーに乗り継いでカサブランカまでの500キロメートル近いドライブをラリー車に混じって走ったことがある。
その時、カサブランカでレース出走のレーシングオーナーである宇治オートの古後郁雄社長と出会った。パリ-ダカールのオーナーコートに身を包んで、衛星通信によりドライバーに指揮をする古後氏の晴れ晴れしい姿が今でも瞼に焼き付いている。出会いの場所は映画カサブランカで有名なホテルであった。名画カサブランカのシーンを再現したカフェで、ピアノ弾きがいてトレンチコートの男があらわれて来る映画のシーン通りの雰囲気の中で話が弾んだ。翌日、カサブランカに既に何度か行って町の様子を知っている小生の運転で町の中の混雑をくぐり抜けて氏を案内したところ、その道の大家である古後氏から、運転の器用さをたいそう褒められたことが今でも自信となっている。以来、ご交誼いただいている。
アルヘシーラスから湾を挟んだ対岸にはターリックの岩と呼ばれる突端に張り出した巨岩が目につくジブラルタルの町がある。大西洋から地中海に出るには、ここを通らなければならず、スエズ運河と並んでもっとも重要な海の要所となっている。ゴルフ場が3~4カ所とれるかどうかの狭い区域が英国領になっていて、パスポート無しではここには入れない。ここはかつてトラファルガーの海戦でフランスを抑えたイギリスが黄昏のスペインから強引にもぎ取った軍事上の要衝だ。英国はこの地を得ることで、地中海からジブラルタルを経由して大西洋に抜けるすべての艦船、商船のチェックが可能となった。ここに大砲を据えられたらいかなる船も航行できないであろう。無論これは戦時下の話であるが。
そして対岸のモロッコ領内にセウタというスペイン領があり、ここは面積もかなり広く、モロッコ領から入ると、途端に完全なスぺインがあり、国境というものについて、否が応でも考えさせられる。
コスタ・デル・ソルは、マラガから200キロメートル前後に位置するエステポナという町から、マルベージャ、マラガを通ってネルハまでの間を指すが、この地域は世界で最もくつろいでバカンスを楽しむに良いリゾートと言えるだろう。
マラガへ行く途中のマルベージャは、三重県の津市で開業医をしている藤田謹司先生夫妻と知り合った思い出の地である。この周辺一帯は、シーズン中は、北欧やドイツから太陽を求めて南下してバカンスを楽しみにやってくる旅行者であふれている。また、プエルト・バヌース港にあるアラブの王族や石油成金の別荘、係留されているヨットの豪華なことといったら、世界でも例を見ないほどである。近くにはリルケが世界で最も美しいと形容した闘牛の発祥地といわれるロンダの可愛い町があり、また高台の町ミハスなどは、若い女性に人気のありそうな町である。マラガはピカソの生まれ育った町であり、歌に詠われたマラゲーニャとはマラガのお嬢さんという意味であるとのこと。
30数年前すなわち1970年の少し前に初めてスペインに入ったときは、マラガからグラナダまでは、アンテケーラを通って砂利道を5、6時間も要したが、バルセロナのオリンピックが始まる頃からスペインは全土で道路網が整備され、面目を一新し、非常に走りやすい高速道を実現している。今ならマラガからグラナダへは2時間もあれば十分である。
ネルハはコスタ・デル・ソルの終点である。断崖に位置するリゾート地であるが、途中にアルメリーヤの町がありここからはチェニジアやアルジェリアへのフェリーの便が良くにぎわっている。またこの周辺は冬も穏やかで温かく、ハウス栽培の必要は無いように思えるのだが、温室トマトの栽培が盛んで、地中海沿岸をひと回りしてもこれに匹敵する栽培地はいまだに見たことがないほどである。
ここからカルタヘナを経て、アリカンテまでは格別な観光的価値は認められない。仕事の関係もあってマラガからバルセロナまではドライブだけで6往復ほど走っているが、この線だけは単調で面白みがない。
<国境の町アルヘシーラスの混沌>
アルヘシーラスはヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を最も近い距離で結ぶ地点にあって、通常考える国境とはずいぶん異なっている。
アルヘシーラスは、北アフリカ、特にモロッコ人にとってはヨーロッパに渡る最も利便の良い(航空機を除いて)位置にあり、港の周辺はジェラバやカフタンに身を包んだモロッコ人がヨーロッパのお土産をいっぱい買い込んで町中に溢れかえっている。また、北アフリカなどで悪さをして逃避した人々や政治亡命に近い人達もいたりして、一種独特の雰囲気をかもし出している。彼らにとっては、自国からの追求を逃れるいわば治外法権の土地にあたるからであろう。
ここからアフリカはすぐそこに望まれる。一番近いセウタ(アフリカ大陸にあるスペインの飛地)まではフェリーで1時間前後、タンジールまでは2時間そこそこなので、フェズ方面へはセウタ行き、ラバトやカサブランカへはタンジール(タンジェ)行きの船に乗る。船の中はほとんどがモロッコ人の乗降客だ。日本人は出入国の手続きにそれほど時間をとられないが、見ていると、モロッコ人、アフリカ人はかなり厳しい検査があるようだ。
港に面した大通りには両替屋やモロッコとスペインに関係するオフィスが立地し、ホテルも結構多い。港湾区域を除いて、大通りに面して幅100メートルほどの平坦地しかないので、この町の中心地に行くには海岸からエスカレーターやエレベーター、また階段を30メートルほど上ることになる。高台に繁華街が形成されており、住宅地はさらにその高台の上の斜面にある。結構大きい町だ。
ここではスリやかっぱらいをしたところで対岸のモロッコに逃げ込めば司法は及ばないため、これらの被害にあわないよう注意が必要だ。逆にアフリカ大陸からの場合にもあてはまる。ヨーロッパとアフリカというまったく異質の接点にあたるアルヘシーラスには、いかにも国境の町という風情があり、これを経験するのも悪くはないだろう。
<スペイン雑感>
スペインの中でもアンダルシアという言葉は日本人にとってとても耳慣れた響きがあり、旅情を誘うが、確かにここには我々日本人から見たスペインのエッセンスが詰まっているようだ。
スペインの国の地域を大別すれば、カタルーニャ地方、アラゴン地方、カスティーリャ・ラマンチャ地方、バスク地方、ガリシア地方、そしてアンダルシア地方である。
そのうちカタルーニャ地方は地中海に面し、またフランスと国境を接していることもあって、人柄も言葉も少し柔らかく、スペインのなかでも少し軽やかな感じで、他の内陸とはちょっと違う。商工業活動が盛んで、その柔らかさのうちに、目から鼻に抜ける商才が隠されており、したたかさを感じる。
カスティーリャ・ラマンチャ地方は荒涼として乾燥しており、どこまでも石ころだらけの大地が一見不毛の土地のようなイメージを与え、節くれだった大きな手と素朴にして頑固そうな人達の土地という印象がある。抜けるような無窮の青空が一年を通して覆っており、しかも虚無を思わせるに十分な絶望的な大地なのだ。
カスティーリャ地方には、バリャドリッド、アビラ、セゴビア、サラマンカ、トレドなどの古都が含まれる。カスティーリャには、バルセロナを中心とするカタルーニャ人とは別な意味の気品と威厳に満ちた顔立ちの人が多い。風景はアンダルシアとは全く異なっている。もちろん特別区とも言えるマドリッドがその中心にあるわけだが、セコビアやアビラなどのカスティーリャ・レオンを別にすれば、南のカスティーリャ・ラ・マンチャなど、それを取り巻く台地はほとんど焼けただれた灼熱の石ころだらけの土地である。北のブルゴスは、バスク、ナバーラ地方に隣接するカスティーリャの最北の地であるが、夏は40度を超し、冬はマイナス20度にも達する過酷な大地である。
そのような風土の中ではひ弱で曖昧な生き方は許されない。剛直で厳格で喜怒哀楽を隠し込んで、遠くを凝視するような気質の人が育つのは当然である。永年かけて、心が通じ合わなければとりつくしまがない感じの気質が育まれる。アンダルシアの人達とは対極にあると言っても良いだろう。
バスク人は、アンダルシア、カスティーリャ、カタロニアの人々とは完全に違っていて、これがスペインなのかと反問せざるを得ない。バスク地方はピレネー山脈のふもとに位置し、北側のフランスにもまたがっているが、ピレネーの恩恵があると見えて、緑と雨に恵まれた日本的風景の広がる豊かな山麓地方である。独特の言葉を話し、民族的にはコーカサス(カフカス)山脈辺りからドナウ川沿いに北上した古代ケルト人の末裔ともされていて、その謎は世界の七不思議ともされている人種である。四季の変化や風光の豊かさが感情の豊かさを育んでいるようで、古来からの日本人の持つ良き特性に近いものも感じる。
ここの中心都市はサン・セバスチャンで、今はバスク語でドノステアと呼ばれる。全スペインのなかでも最も穏やかで落ち着いた風情に満ちた、そして気品ある街である。緑豊かなバスク地方はビスケー湾で採れる魚介類の幸に恵まれて食文化についても格別洗練されている。
ガリシア地方には、古くから聖ヤコブの聖なる遺物のある巡礼の街、サンチャゴ・デ・コンポステーラがある。中世ヨーロッパのカトリック教徒にとっては、生涯に一度は訪問、巡礼すべき地として、あらゆる方面からの巡礼の道が開かれ、今でも信仰心の篤い、穏やかな人達が暮らしている。この地はブルゴスやレオンの山越えをしなければ行くことができない、他のスペインから隔絶された地方である。風土は緑とリアス式海岸に特徴がある。アストリアス地方やバスクを結ぶカンタブリア地方のビスケー湾沿いを通じてのバスクと共通する部分はあるものの、それともやはり趣を異にする。1990年頃この辺を目的もなく1週間ほどドライブをして、あたりの農村を巡ってみたが、素朴だが心優しい人情はすぐに伝わった。
海岸線は本当に日本の風景に似ている。内陸部はこの地方の州都であるレオンの間に横たわる山地がほとんどで、条件の悪い開拓地の風情の土地柄である。山に自生する樹木は全てユーカリのみと断定しても良いくらいだ。
ナバーラからリオハにかけては牛追いで知られるパンプローナの街を除けば印象深い街はないが、ムルシア州とならんで野菜の美味しい土地柄である。とりわけ白アスパラが有名で畑一面がアスパラの白さをまもるために覆土されており、ちょっと見た感じでは種を播いたばかりの畑と見間違う。ヨーロッパ人は白いアスパラガスの方をより好むため、太陽の光線を受けたアスパラガスが緑になることを避けるため、伸びた部分に伏土を何度もするのである。
リオハはワインで有名である。スペインのワインといえば誰でもリオハの赤ワインを連想するように、へレスのシェリーと双璧をなしている
最後に南のアンダルシア地方である。さて、日本人がスペインを思うときに想像する第一のものは何であろうか。多くの人がフラメンコ、ジプシー、闘牛と答えるだろう。これはアンダルシア特有の文化であって、スペイン全体に共通するものではないと知るべきである。もちろんマドリッドでは一流のフラメンコが見られるし、闘牛はスペイン中どこでも開催されている国民的アミューズメントであることに変わりはないが、それらのスペインを代表するイメージはアンダルシアにその源がある。黒い髪に花櫛をさしたジプシーの娘、そしてその踊りを盛り上げるギターとカスタネット、盛り上がるほどに激情に身をくねらせる踊り手たち、狂熱のリズム、この雰囲気こそスペインであるとでも言うなら、スペイン人の多くは「それはアンダルシアであってスペイン(カスティーリャ)ではない」と反発するだろう。
歴史的な目でアンダルシアを見てみよう。今のイラクのバグダッドに都のあったアッバース朝とシリアのダマスカスにあったウマイア王朝の内紛によって、ダマスカスのウマイヤ王朝が国を追われて、カルタゴ周辺のカイルアンやモロッコのムラビト朝などのイスラム勢力、いわゆるモーロ人と呼ばれる人達を教化しながら、ジブラルタルを越えて、スペインに侵略し、アブドゥル・ラーマンⅡ世の時代にコルドバにその都を築いた。その後15世紀末頃まで文化の華を咲かせ、当時の世界に冠たる影響を与えた、その地方こそがアンダルシアなのだ。セビーリャ、グラナダ、コルドバやマラガなど我々にも馴染みのある町は、これらの歴史に含まれる都市である。
アンダルシアへの旅とマドリッドやトレドとバルセロナ訪問を加えればスペイン通となるわけだ。だが、グラナダなどの世界遺産はあるとしても、アンダルシアはスペインの一部であるに過ぎない。スペインは広い。知れば知るほど多くの文化遺産の上に展開されるこの国土の偉大さを痛感することになるであろう。
小生が最初にスペインを訪れた頃は、電車の便はもちろん、車でドライブするにしても舗装道路は整備されておらず、土ボコリの道を今の何倍もかけてドライブしなければならなかった。しかし、幹線道路はバルセロナオリンピックを境に見違えるように整備された。また最近顕著に感じることは、あの赤茶けた石ころだらけの乾燥地にも各地に灌漑ダムが造られ、大がかりな灌水設備によってこれまた見違えるように耕地が拡大されている。これほどに面目を一新した国もあるまいと思われる。オリンピックとセビーリャ万博をひかえた頃のマドリッドのアトーチャ駅やバルセロナの空港は、工事が遅々として進む様子もなく、工事の完成を訝っていたが、仕上がりは相当に立派なものになっていた。最近になってスペインに旅行された方には、以前の姿が想像もつかないであろう。
<花のアンダルシア地方とアルハンブラの想い出>
さて、アンダルシアについて語るとしよう。とすればやはりコルドバから始めるのが妥当かも知れない。なんと言ってもここを代表する雰囲気は、キリスト教文化の上に建設された8世紀から13世紀中頃まで続いたイスラム教の都の痕跡が残っていることである。最盛期には100万とも誇張されるこの町の人口は、最低でも60万人以上あったといわれ、当時の世界で最も華やぎのある町のひとつであったことは想像に難くない。アラブの化学、生理学、医学、哲学は、当時としては他のフランスやイギリス、ドイツに抜きん出て優れており、世界に影響を与え続けたのである。レコンキスタと呼ばれるいわゆるキリスト教徒による国土回復運動によって、その命脈が尽きるまでの400~500年に及ぶ影響は大きく、その痕跡は未だに往時を偲ばせるものがある。
この町を代表するカテドラルはメスキータ寺院と呼ばれる。ここは、以前にカトリック教会があったその地に教会を解体して建造されたもので、その赤とベージュの砂岩の2色の色合いの石積みを縞模様に積み上げた、いわゆるメスキータ模様の規模には圧倒される。歴史書をひもといて確認したら、その建設は785年に始まったとなっていた。故郷を追われた後ウマイヤ朝のアブドゥラ・ラーマンⅠ世が当時のバグダットのモスクを越えるものをと命じて作らせたとあるが、これだけの規模の建物を竣工させたときの心境はいかばかりであったろうか。ある意味で故郷に錦を飾った心境になったのであろうか。あるいは意地を通しきった後、むなしい気分が襲ったのだろうか。今では知る由もない。
宗教的建造物としてはヴァチカンのサンピエトロやロンドンのセントポールやミラノのドゥーモも大きいけれど、小生はこのメスキータ寺院の規模が一番大きいように思えてならない。回教徒のモスクとしては世界最大規模のものであろう。不思議なことにその中央部にカトリックの祭壇が共存していて、異様な気持ちにさせられる。元々がキリスト教の寺院だった場所にイスラムがあらたにこのメスキータ寺院を建設し、更にまたキリストの祭壇がその中央部に祭られたのである。そういえばトルコのイスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院にも共通点がある。
コルドバの旧市街の細道を散策すると良い。無数の細道には絵心のある人なら思わず描きたくなるような、可愛い、しかし歴史の風雪を感じさせる横道があちこちにある。家々は白のプラスターで仕上げられており、パティオに面した白い壁には、いたるところに各種の花の鉢がつり下げられている。本当に心休まる、飽きのこない散歩道があちこちにある。ローマ時代の皇帝ネロの家庭教師も務めて一世を風靡した哲学者のセネカはこの町の生まれである。
国を失って世界中を流浪するユダヤ人も、ここでは安心して暮らしたとみえて、コルドバのユダヤ人街は当時のフェズ(モロッコ)のユダヤ人街に匹敵する規模である。きっと包容力のある政治が行われていたに違いない。この街には気品や格式、それに加えて安らぎがある。町中に点在する中庭の、いわゆる緑や花のパティオでゆっくりと時間を過ごすのも良いだろう。
コルドバからは、グァダルキビール川沿いになだらかな扇状地をドライブすれば1時間あまりでセビーリャに到着する。列車の場合、マドリッドのアトーチャ駅で新幹線アベ(Ave)に乗れば3時間弱でセビーリャのサンタフスタ中央駅に到着する。乗り心地はフランスの誇る新幹線TGVより快適と思われる。フランスの新幹線TGVの本線はパリのリヨン駅を出発して、ディジョンを経由し、リヨンのペールラシューズの駅に着くまでは単調ながら優しい緑色の絨毯を思わせる大地を走るのだが、スペインの新幹線はマドリードのアトーチャ駅を出れば、ラ・マンチャの西端に属するシウダーレアル、コルドバを経てセビーリャのサンタフスタの駅に着くまではひたすらに赤茶けた大地を走り続けるのである。よくもまあこんな乾燥地に人が住めるものだといった印象があって、酷熱と乾燥をもたらす太陽がうらめしくも思え、ここに住む人々に同情さえ湧き起こってくる。
ところで、マドリッドからの新幹線が着く終点のセビーリャの町から南はグァダルキビール川の氾濫によって形成されたデルタ地帯である。セビーリャを頂点として西のウェルバから東のカディスの間に形成された三角州はアンダルシア最大の沃野であり、乾燥したスペインにあってむしろ湿地帯の多湿な土地である。大河の流域がどこでもそうであるように無数に運河をつくり、排水をしながら沼地を耕地に変えてきたのだろうと推測する。したがって、野菜や果実の生産量に恵まれている。大地も平坦であるがゆえに、今ではスペインを代表する近代工業地域が形成されつつある。
記憶をもとに文献を確認してみると、このウェルバは、ローマ帝国のトラヤヌス帝やハドリアヌス帝といったローマ帝国華やかなりし頃の帝王の生誕地であることを知って驚いた。そういえば、かのコロンブスにしてもジェノヴァの生まれであり、黄金の国ジパングを目指して、この町を貫流するグァダルキビール川から出航したのである。マゼランの世界一周航海も同じである。いうなればアメリカ大陸の黎明はここから始まったと言っても言い過ぎでないことになる。
それにしても昔の人達の行動力に驚嘆させられる。特にコロンブスの場合、イサベラ女王にパトロンになってもらうために、内陸をあちこち旅しているし、晩年名誉を回復するために、700~800キロメートルも北のバリャドリッドまでも往還している。行動力という点ではコロンブスに限らない。北のスコットランドにはハドリアヌス帝の築いた国境の壁もある。いずれにしても酷寒、酷暑いずれかの旅であったに違いない。スペインの灼熱の夏、冬の厳しさなど、この乾燥地の気候がどのようなものであるかを知っているものにとって、過酷な条件の下での移動は、格別の驚きに思えるのである。当時は動力や無線のなかった時代なのだから。
さて、アンダルシアを旅して一番印象に残るところはどこかと聞かれれば、グラナダが一番と答えるに違いない。小生はこの町が好きで、いろいろな行き方で何度も訪れている。最初の1970年少し前の頃は、観光客も少なく、終日落ち着いてアルハンブラの静けさを愉しみ、ヘネラリフェの園で水音を聞いてシェラネバダの万年雪を眺めたものだ。だが80年代以降になると世界各地から団体客がバスに乗って大挙押しかけてきており、ゆっくりその居心地を味わうことができなくなっている。人気のライオンのパティオやヘネラリフェの庭園は、静けさの中でゆっくり鑑賞し味わうべきなのに、よほどの幸運に恵まれない限り、喧騒の中でしか時を過ごすことはできない。今では入場券を買うのでさえも長い列を作らなければならないし、入場制限も行われている。
このアルハンブラの宮殿は、イスラム教徒であるモロッコやアルジェリアのベルベル民族を中心としたモーロ人と呼ばれる人達によって建設されたが、完成して間もなく、レコンキスタ(国土回復運動)によって、その居心地を確かめる暇もなく、グラナダの地を追い出されたのである。さぞかし悔しかったに違いない。イスラム教徒がおよそ800年にも亘る長い年月をかけて、維持発展させ、その文化の集大成と思えるこのアルハンブラ宮殿の完成直後に、異教徒であるキリスト教徒に無条件で明け渡さざるを得なかった、その心境はいかばかりであっただろうか。
グラナダとはざくろのことを意味するスペイン語だそうだが、まさしく黄土色というか赤色とも言えるこのアルハンブラ宮殿は、内に入ればすなわち、ざくろと同じように、真紅の実にも似た華やかさが潜んでいる。
世界の三大建築物は?と問われれば、そのうちのひとつに豪華壮麗なものとしてベルサイユ宮殿をあげる。いまひとつはインドのアグラにあるムガール朝の霊廟であるタージ・マハールをあげる。シンプルで瞑想を誘う名建築であると認めないわけにはいかないのだ。そしてかならずやアルハンブラ宮殿をそのうちのひとつに数えるに違いない。
アルハンブラの良さは居心地のよさである。モザイクは精緻を極めており、贅沢きわまりないが、元々土を焼いただけのタイルである。天井もまたレバノン杉で作られたもので、格別、金銀や宝石をちりばめたりしていない質素なものである。しかしながら、この建物は、誰にとっても、安らぎとくつろぎを与えてくれる名建築だと確信する。
さりながら、見る者にとってこれほど艶めかしい建築もないように思える。静かなる華やぎというものであろうか。その昔、アラブの公達が、ライオンのパティオの周辺に、薄衣を着た美女を侍らし、クッションや絨毯を敷いて、悦楽の時を過ごさんとして築造された宮殿と知れば、それもむべなるかなと思える。裸足でヒタヒタと大理石の上を薄衣を着た美女たちが歩き回る光景を思えば、思わずゴクンと生唾が出そうになることを禁じえない。威圧感もなく金襴緞子で飾り立てたけばけばしさがなく、それでいてこれほどまでに華やいでいる宮殿は他に知らない。
ヘネラリフェの庭も程良い大きさで、万年雪を頂いたシエラネバダの清々し秀麗さと糸杉の間に咲き乱れる花々の美しさが素晴らしいコントラストを見せ、とても印象的で、終生忘れがたい思い出を与えてくれる。
アルハンブラ宮殿の背景には万年雪を頂くシエラネバダ山脈が連なり、山麓には緑の沃野が広がっていて、豊かな土地柄であることを感じさせる。ここのランハロンと呼ばれるミネラルウォーターは、フランスのエヴィアンや、イタリアのサンペレグリーノなどと比較しても負けないくらいの美味しい水である。小生はこのランハロンのミネラルウォーターを輸入販売したいと考えたこともあったが実現させなかった。もっとも今ではノルウェーの極地に近い水が限りなくおいしいと思ってはいるが。
<スペインの夕陽に見る感動>
グラナダの高地からマラガあるいはセビーリャに行く途中の夕暮れ時の美しさにはいつも感動を覚える。地中海に沈む大きな赤い太陽、海と空が一体になって真っ赤に染まるのである。一度など、抜けるような青空とともに、真っ黒な雨雲が突然現れ、その背後に夕日があって、しかも激しい雷雨がそれに加わるという、3つの印象的な現象が同時に見られたことがある。まるでプラド美術館で見るゴヤの絵の背景にある空のようで、それはそれは劇的な光景であった。このような夕陽はスペイン以外ではお目にかかることはできないのではないだろうか。サハラを渡る熱風とシエラネバダの冷風がぶつかり合って、このような現象が発生するのだろうか。
夕日と言えば、クエンカからマドリッドに抜けるというか下る際に、峠で見た夕日の壮大さにも驚いたことがある。壮大というか荘厳さに満ち満ちていて、なんとも形容し尽くせない真っ赤な夕日がカスティーリャの空を染めていたのである。この時は、義甥と妻の3人の旅であったが、3人とも呆然として、その荘厳さに打たれ、時の過ぎるのも忘れかけた思い出がある。今まで世界の各地を旅し、マニラの夕日であるとか、地中海の東西南北、サハラ砂漠の夕日や日の出、さらには神々しいヒマラヤの日の出も見ているのであるが、スペインの各地で見る夕日ほど、ドラマチックなものは知らない。
~ 閑話休題 オーロラの話 ~
大気の現象についての感動といえば、20代前半アメリカ留学中にオーロラを見たいと思って、当時のオレゴン州立大学(ポートランド・ステーツ・ユニバーシティ)寮の同室の学友と一緒にエスキモーの部落まで出かけたことがある。アンカレッジからノーム経由でコツビューというエスキモーが300人位と米軍の通信基地に勤務する数百人が生活している土地であった。2月の厳寒時にアンカレッジから空路ジェット機で3時間あまり真北に飛んだこの地の外気はマイナス45度であった。目的は極寒のエスキモーの生活ぶりを知ることとオーロラを見ることであった。3日間の滞在中にはエスキモーの家に招かれてごちそうになったりもした。
ホテルともいえないような、壊れかかった小さい宿が空港の建物に併設されていた。オーロラに出会うためには、夜15~20分くらいの間隔をおいて外に出て空を仰ぎ見るのである。(マイナス45度もあれば20分以上は寒くて外に出ていられない)。以前はヨーロッパへの空路はアンカレッジ経由であったため、たまに機上からオーロラを見る機会はあったが、このときの北極圏の地上から見るオーロラは格別に印象深かった。水の中に絵の具を溶かし込んだように、天空から湧き出すオーロラは、物音ひとつしない静寂の中から、いつ果てるともなくパイプオルガンを思わせる形状で次々と湧き出すのであった。感動に違いはないのだが、それとは少し違う、神秘さを覚える静かなひとときであった。雲が湧き出るように絶えず変化しながら、そして下部の方から消え去っていく様子に少し気味悪ささえ感じるほどであった。
これに対してスぺインで見る夕日の感動は、シンバルが突然大きく鳴り響き、続いてティンパニーが乱打されるようなオーケストラによる一大シンフォニーで、ドラマチックこの上ないものである。殊にマラガの夕陽の、ゴヤの絵画云々の時はそうであった。天地創造のドラマを垣間見た気がしたものである。
話は元に戻り、アンテケーラの坂を下りて、小1時間もすればマラガである。言わずと知れたパブロ・ピカソの生まれた土地であり、黒髪に濡れたマラガのお嬢さん、すなわちマラゲーニャの町である。スペインの闘牛の発祥地はロンダであるとされているが(カスティーリャのアビラやナバーラのパンプローナの牛追いが始まりという人もいる)いずれにしてもマラガは闘牛が盛んである。闘牛のメッカと言っても良いだろう。マラガは行政区で言えば、アンダルシアに属するが、ここからマルベージャを経て、エステポナ付近までをコスタ・デル・ソルといい、世界中、特に北欧やドイツ人のリゾート地として人気が高い。春から秋にかけてこの地はスペインの土地というよりスカンジナビアやドイツにいるような感じのリゾートになり、町のたたずまいは、独特のコスタ・デル・ソル風というか、モーロ地中海風というか、風情のある戸建て別荘が無数に点在し、美しい町並みを形成している。トレモリーノス、フェンヒローラ、ミハス、マルベージャ、内陸に入ってロンダ、カサレスなどは、白い建物が太陽の光を反射してまぶしい土地柄であり、オレンジの木や椰子の木などが彩りを添えている。まことに快適なリゾート地である。ゴルフの好きな人にも、コースが多数あって愉しめる場所でもある。
近くにあるプエルト・バヌースの港には、全地中海を通じてこれ以上ないと思えるほどの、豪華ヨットが停泊しており、驚かざるをえない。聞くところによると、アラブの王族や石油成金のリゾートの中心であるとのことであり、なるほどと納得した。この地域の夏の期間は、ロールスロイスが世界中で一番多く集まる場所だそうで、そのような意味で言えば、サルデーニャのコスタ・スメラルダと共通点があるが、規模からすれば、マルベージャの方が大きく、豪華である。老後に何の不自由がなく、使い切れぬほどの金があれば、ここは天国に違いない。もっとも大金持ちでなくても充分に暮らしやすい土地であって、北欧やドイツ人の別荘地としても馴染み深い土地である。グラナダを訪れる機会があれば、是非2、3泊以上の日程をとってゆっくり滞在して欲しい。
<バレンシアからバルセロナまで>
レコンキスタはスペインの国土回復運動すなわちイスラム勢力を駆逐してスペインの自治独立を目指した国民的運動であるが、その代表的英雄の1人に有名なエルシドがいる。彼はバスクに近い北部中央地方のブルゴスの生まれであるが、アリカンテを場にレコンキスタ(国土回復運動)を指導し、成果をあげた。アリカンテにはハワイのワイキキビーチに似た海岸線の突端近くに、これもダイヤモンドヘッドに似た岩があり、この岩をエルシドの岩として地元の人々に敬愛されている。
そもそもアリカンテの地元における正式名はアルカンタラと呼ぶが、このALで始まる語源はすべてアラブの影響によるものとされる。海を隔ててはいるが、北アフリカのアルジェリアなどは近く、TVのチャンネルを回せばアラブの音楽が流れている。ここからはアルバセテなどの荒れ地を抜け、マドリッドまで5時間ほどのフリーウェイが通じている。この地域には、ムルシアやバレンシアなど地方の主要都市としての機能を備えた町並みが見られる。
アリカンテを過ぎて30分ほど走ると、ベニドルムというアメリカのマイアミビーチやワイキキを思わせるおよそヨーロッパとは思えない高層のホテルやマンションが建ち並んだリゾート地がある。ここは太陽を求めて南下するイギリスやドイツの庶民のリゾートビラの林立する場所として賑わっている。あまりにもアメリカ的な高層のマンションが立ち並びすぎていることから、裕福な階層のヨーロッパ人たちには敬遠されている。海岸線は砂浜が白いことからコスタ・ブランカと呼ばれる。さらに北上すると、コスタ・ドラド(黄金の海岸)がバルセロナまで続くことになる。
バレンシアに近づくと平野がひらけ、見渡す限りにオレンジの畑が続く。日本人にとってバレンシアという響きから、先ずオレンジが頭に浮かび、つぎに大好きなスペイン料理のパエリャか火祭りを思い浮かべるだろう。ムルシアからバレンシアにかけてはスペイン屈指の平坦な沃野が広がっており、野菜、果樹なども豊富で、一年中緑と花が咲き乱れる麗しき土地である。しかし旅行者にとっては、豊かであっても平坦な沃野のみでは刺激が少なく、あたかも関東平野の埼玉や千葉県の田舎を走っているような地形である。
バレンシアはスペイン最大のコメの産地であり、われわれ日本人にとっても馴染みの深いパエリャは、ここが本場である。コメに関しては、聞いたところによると、なんでも日本人の技術者がバレンシアの米作りを指導して成長したそうである。
また、バレンシアの郊外にアルブフェーラという淡水湖があるが、ここではウナギの養殖が行われている。道の左右に水田とウナギの養殖池を見ながら車で走ると、ここがスペインなのかと思ってしまうほどである。
スペイン好きの方ならオルチャタという飲み物をご存じであろう。チューファという草の根から作ったカルピスのような飲み物で、夏の暑いときにこれを飲むとさわやかな味が口に広がる。このオルチャタはバレンシアが発祥の地であり、オルチャタ村に行けば、美味しいオルチャタを飲ませるバルが軒を並べている。
農産物などの豊富なバレンシアでは、是非メルカード(市場)を訪れてみたい。農産物だけでなく海産物も豊富で、またアルブフェーラからのウナギも沢山並べられている。バレンシアの中央市場は観光客にもわかりやすい、駅に近い場所にあり、広々としていて、魚や色とりどりの野菜、果物が所せましと並べられている。見てまわるだけでも楽しい。特にパエリャに使うサフランなどはここで買うと安い。市場の前にはパエリャ鍋が1人前用から、およそ100人用まで、小から大まで大量に並べられていて、これも面白い。
小生はこの町の火祭りは見ていないが、最上等のレストランの厨房に入る許可をもらって好物のパエリャを作る過程を見せてもらったことがある。したがってパエリャを作る自信はある。
さて、バレンシアとバルセロナのちょうど中間にペニスコラという町がある。本土に隣接して江ノ島のようにきれいな土地であるが、島全体が要塞のようになっており、フェニキア、カルタゴなどの争奪戦の果てに、レコンキスタの騎士団が要塞を築き、ローマ法皇も一時ここを居城にしたことがあったとも聞く。
ペニスコラを過ぎ、バルセロナが近くなるとタラゴナの街がある。ローマ時代の遺跡があちこちにある。シーザーの時代には人口100万人を擁していたとされるこの街は、風雪に耐えた歴史の奥深さに落ち着きが見られる街だ。今では人口10万人もいようかと思われる静かな所で、暖かさと、海の青さがまぶしい街である。昔からタラゴナの人々はタラッコと呼ばれ、気品と誇りを大事にしている。
タラゴナからバルセロナは車で40~50分の位置にある。フランコ総統が生きていた25年ほど前には、全てスペイン語(カスティーリャ語)を義務づけられていたバルセロナも、今ではカタルーニャの州都としての誇りと独自性の発露として、カタラン(カタルーニャ語)を採用している。話し言葉も街の表記もカタランである。フランス語とスペイン語をミックスしたようなこの言葉は旅行者にとっては理解が難しい。
フランコがまだ生きていた頃にバルセロナに留学していたことのある妻の話によれば、当時でも役所やデパート、学校など公の場ではスペイン語(カスティーリャ語)が義務づけられ、カタランは禁止されていたものの、反骨精神の強いカタルーニャの人々は、家の中、友人同士ではカタランで話していたそうである。市民戦争で大きな痛手を受けたこの地方の人々の間にある心の葛藤は部外者には計り知ることができない。
ピカソやミロ、ガウディ、そしてフィゲーラスのダリなどの強烈な大天才が育ったこの街については心に留めておく必要があろう。通常では考えられない独創性を育んだバルセロナの、その包容力の大きさに驚かされる。土地の暮らしが豊かだからであろう。バルセロナについては歴史、美術、建築など様々な分野の案内書があるので、それぞれの興味にしたがって、それらを参考にしたら良いだろう。地中海の光を受けて明るく、ランブラス通りのように、のびのびとおおらかな街だということだけは記しておこう。近くにはシッチェスの海岸リゾートがあり、ガウディに芸術上の着想を与えたモンセラットの岩山もある。ちなみにガウディはタラッコ(タラゴナの人)である。
<ダリ美術館とフィゲーラスの町、そしてカダケス近郊の3つ星レストラン>
バルセロナから1時間も走ればジローナ(カスティーリャ語ではヒローナ)に入る。バルセロナなどの大都会を近くに持つ街として、軽工業や食品加工などが盛んである。バルセロナから車で街の中に入ると、なにか雑然とした印象があったりするが、少し奥に入って旧市街に行くと、一変して落ち着いた奈良や京都などにも似た雰囲気を感じる街である。それもそのはずで、この街は、カルタゴやギリシャ、ローマの侵略を受け、さらにはスペイン内戦でも戦火をかいくぐってきた歴史を持つ町なのである。
ジローナから小1時間も走ればフィゲーラスに出る。言わずと知れた世紀の奇才にて大天才サルバドール・ダリの街である。パリのルーブルやロンドンのナショナルミュージアム、マドリッドのプラド、そしてニューヨークのメトロポリタンなど、数多くの著名で立派な美術館はあれど、ここのダリ美術館ほど興味深く面白い美術館は無い。カタルーニャ地方のパンの形をしたフォルムを壁に貼り付けた変わった建物ではあるが、興味はそれだけではない。適当にこじんまりした中にダリの本質をあちこちにちりばめていて、見るものを飽きさせない。バルセロナに行く機会があったら、ちょっと足をのばしてフィゲーラスに行くと良い。世界的に著名であったダリがこの地にこだわった理由がわかるだろう。ダリの芸術だけはルーブルに飾ってもメトロポリタンに飾ってもその真価は発揮されない。この、ほど良い大きさの、フィゲーラスの街の規模と、そこに住む人々のもつ雰囲気に包まれた、その集大成としてダリ美術館が存在するのである。
そのダリのモデルに再三登場する夫人の生家がフィゲーラスからほど近い地中海に面したひなびた保養地カダケスというところにある。途中険しい山を越えて海岸に至れば、小さく可愛らしいカダケスの町がある。ここはリゾートクラブで有名な地中海クラブ発祥の地である。ひっそりして静かで、バカンスを楽しむには申し分ないところである。夏には世界中から富豪が集まりにぎわっている。小生は2度行っているが、残念ながらいずれも2~3月のオフシーズンのみの巡り会いで、寂しくてわびしいカダケスしか知らない。
先年、津市にお住まいの敬愛する藤田先生から、カダケスから少し入った場所に「エルブリィ」という素晴らしいミシュランの3つ星レストランがあり、最高だったということを聞かされた。藤田先生は医師という仕事の合間を作っては、ヨーロッパ全域にわたって食べ歩きしている美食家である。国別のみならず、主要地域の分化されたミシュランの地図とガイドブックをいつも枕元におき、計画を立てながら、ミシュランの星のあるレストランを楽しんでおられる。その話を聞き、今度機会があったら立ち寄ってみようと漠然と思ったのだが、後で地図を見てみると、ポツンと離れた半島の先にあるではないか。次はいつになるだろうかと思っている。
しばらくしてリストランテヒロの山田宏巳シェフと約1週間、毎日顔を合わせる機会があった。食の話になり、ミシュランの星を代表する素晴らしい店として再び「エル・ブリィ」が出てきたのである。彼の評価も非常に高く、パリやモナコのアランデュカスの店を抜くセンスの良さがあり、近年の訪れた店としては最高の店だったと聞かされたのである。「オヤジさん今度機会があったら一緒に行こうよ」と言われ、即座に同意したのは当然である。実は車を馳せて、自由自在にあちこち歩いている小生にとってもカダケスは他の地域との接続という意味で便が悪く、わざわざ目的を持って出向かない限り、そう簡単に行く機会がない。
(エル・ブリィにはこの本の出版直前の2004年6月に機会があり訪れた....。)
~ 閑話休題 ~
ー ドライブ旅行の友ミシュランの地図 -
小生のドライブは、よほど日程が詰まっていて、どうしても目的地に早く着かなくてはならない場合を除いて、高速道路ではなく通常はミシュランの地図上の細い田舎道を走ることを心がけている。その場合は、できるかぎり緑の線のある(ミシュランの地図には景色の良い道路が緑の線が引かれている)道を選び、展望の開けた(これもミシュランの地図に絵柄で記載されている)場所で休憩を取るようにしている。
どの国をドライブしても、高速道路網は周りの景色にちっとも面白みがない。それにひきかえ、地図に載っているかいないかと思われる細い田舎道は車などのなかった時代からの歩道や馬車道が中心になっており、そこには歴史的遺跡やローカル色豊かな人々の暮らしが見られるので、ドライブ旅行としては、断然変化と興味に満ち満ちている。
ー スペインの高速道路 -
スペインの高速道路網はバルセロナオリンピックを境に急速に整備されて面目を一新している。これは全国的なもので、車での移動は快適そのものである。ほとんどの幹線道路はフリーウェイ(料金が無料)で、日本との違いを感じさせられる。また、たとえ方向を間違えてフリーウェイに入ったとしても慌てることはない。側道に入るとラウンダバウト(ロータリー式交差点でぐるぐる廻りながら行きたい方角に向かうことができる)があり、幹線道を外れることなく方向を変えることができるのだ。
スペインのドライブで目を引くのは、高速道路沿いの丘にしばしば現れる黒い牛の形をした大きな看板である。何の宣伝文句も書いていないが、これはヘレスのブランデー製造会社の広告看板である。文字がひとつもないので逆に印象が強い。出現当時は世界の広告コンクールでグランプリを受賞したとのことである。
ー 男のひとり旅の洗濯物 -
長旅を続けていると洗濯物がたまってしまうことがある。そのような時のひとつのアイデアとして小生の経験を話すことにする。たとえば小さな田舎の村などで井戸端会議でたむろしているご婦人たちを見つけて輪の中に入っていき、事情を話して洗濯機を借り、脱水までしてもらう。その後景色が良く陽当たりの良い場所まで車で行って、昼寝をしながら木々の枝などに洗濯物をかけ、乾燥させるのである。非常にちゃっかりしているのだが、このようなことから、個人の家にも招かれてコーヒーをごちそうになったりしたこともあり、おもしろい出会いを楽しんでいる。
<スペインの海岸線からフランスに入る>
ニーム、アルル、アビニョンなどのプロヴァンス地方まで
フランスとスペインの国境は、車で走るとたいした困難はないのだが、電車で越えようとすると待ち時間が多くやっかいである。名物特急タルゴやEC特急でならスムーズにいくが、普通電車や急行で越える場合は、接続が悪く長い時間待たされる。少し離れてフランス側からスペインに入る場合はナルボンヌ、スペイン側からフランスに入る場合はフィゲーラスに戻って特急で国境越えをするのが良い。
スペイン国境から海岸線をフランスに上っていくと、マルセイユに至るまでの道には、ナルボンヌがあり、ナルボンヌからは、ツールーズや城壁の完全な美しさを残すカルカッソンヌがすぐ近くにあり、アルビやル・ピュイなどの美食の町にも通じている。
ナルボンヌをすぎてアルルにほど近く、ほど良い街の広さと気品あるたたずまいの街ニームがある。ここは南プロヴァンスの中心都市であるが、近くのアルルやアビニョンは観光客でごったがえしていても、いつも落ち着いたたたずまいを見せている。ローマ時代の遺跡があちこちに残っており、見るべきものも少なくないが、同じプロヴァンスでもエクス・アン・プロヴァンスとは違ってギリシャ、ローマ時代の香りがそこはかとなく漂い、シックな異国情緒があふれている。この町では繊維製品が安く、旅の途中で洋服などを見てみるのも楽しい。静かにニームに滞在し、ここからアビニョンやアルル、カマルグなどに足を伸ばしても良いだろう。
カマルグは、バードウォッチングや昆虫の採集などに興味のある自然派にとってはうってつけの場所である。ただし、交通の便が悪い。車で行ったとしてもだだっぴろい湿地平野を移動するのはかなり難しい。無数に川や運河が走っており連絡橋を覚えていないと、簡単には目的地にたどり着かないこともありそうで要注意である。
<マルセイユからニースを経てマントンまで>
マルセイユという町の名前には旅情を誘うものがある。というのも、かつて古きよき時代には海路にて、多くの画家や作家たち(藤田嗣治や近年では遠藤周作など)がフランスへの第一歩をこの地で踏み出したのである。いわば憧れの港町であると言えよう。少なくとも小生にとっても最初に訪問した20数年前には、そのような憧れがあった。
確かに今でも海上から眺めるマルセイユの街は情緒があって美しい。マルセイユ港からモンテ・クリスト伯の厳窟王で知られるイフ島やその先にあるちいさな小島に夜景を眺めながら小舟で渡ったことがあるが、その風景は今でも忘れがたい。4年程前には友人7人とマルセイユからコルシカのアジャクシオ(ナポレオンの生地)に一晩がかりでフェリーで渡ったことがある。離岸する際に、夕暮れのマルセイユの街を眺めながら、しみじみと義姉が歌ったパルチザンの歌が心を揺さぶり、夕陽に赤く染まったマルセイユの町の風情にとけ込んでいて、とても印象深く忘れられない思い出として残っている。
しかし、一歩マルセイユの町に足を踏み入れると、フランスというよりもどこか異国の町に来たような感じを受ける。アフリカ、特にアルジェリアなどからの出稼ぎや移民が多く、しかもそれらの人たちが町を制しているかのような強い印象のある港町であることを知ることになろう。町中いたるところにクスクスを食べさせる店がある。強いミントの香りのティーを飲みながら一休みすることも一興ではある。
一方で、さすがマルセイユだけあって、港を望む一角にレストランが集まっている場所があり、ここではブイヤベースやムール貝などの魚介料理が安くて豊富に食べられる。食道楽を任ずる限り、一度は訪れて本場のブイヤベースを試さなければならないだろう。
内陸に入るとエクス・アン・プロヴァンスに至る。ここはセザンヌが終生居着いて、その風景を絵に描き続けた町である。この地域の文化の中心地にふさわしく、落ち着いた、とても素晴らしい、住みたくなるような雰囲気のある町である。彼が良くモチーフにしたサン・ビクトワールの山は町のいたるところから望めることができる。セザンヌの質素なアトリエは、一見貧相な感じだが、セザンヌらしい落ち着きがある場所でもある。
世界最大のハーブ・スパイスメーカーがエクスの近くのオーバーニュという小さな町にある。プロヴァンスはハーブの産地として有名だが、訪問して聞いたところでは、この工場ではプロヴァンスのみならず南米やアフリカ、アジアなどから、ありとあらゆる香草類を集めて、スパイスを作っているそうだ。
少し走って海岸線に出れば、ツーロンの軍港を脇に見ながらサントロペに至る。かつては素朴な漁村であった、このひっそりした人里離れたリゾートには、今では形容しがたいほどの豪華なヨットが係留されている。夜ともなると、港に接岸したクルーザーの後部デッキには大きな生花が飾られ、今宵の船上パーティーのゲストを迎えるためにデッキが出され、ボーイたちが船上で忙しく働いている姿が否応なく目に入る。サルデーニャのポルトチェルボやマルベージャのプエルト・バヌース同様、世界中から王族や大富豪や石油成金たちがここに集まって来るに違いない。この小さな町にエルメスやグッチなどの高級店がひしめきあって何でも揃うが、特権階級のリゾートファッションという趣があり、日本人の観光客には派手すぎて似合わないだろう。
サントロペから10キロメートルほど先に、地形が平坦になって間もなくPort Grimaudというヴェニスを小さくしたような運河の町がある。リゾート兼用の、家族連れでにぎわうテーマパークのような小さな運河の町で、徒歩で1時間もあれば町を見てまわることが出来る。この町のことは、日本のガイドブックなどには載っていない。取引先の社長夫人からサントロペの近くに可愛い町があるので寄ってみたら、と言われて、近くを通ったときに立ち寄ったものである。
1995年頃には、サントロペからサンラファエルを通ってカンヌに抜ける道は細い一本道の海岸道路で、素晴らしい景色があって、コートダジュールをドライブしているという気分を十分満足させられたが、今では2車線の立派な道路に変身しており、対向車にヒヤヒヤすることなくすーっと通れるので、あまり面白みがなくなった。もちろん、車を停めて海の青さを眺めれば、世界に冠たるコートダジュールであることに変わりはないけれど。
ドライブして断然眺めが美しい海岸線は、スペインのコスタ・デル・ソルと南イタリアのアマルフィ海岸、そしてこのコートダジュールを嚆矢(こうし)とするであろう。もちろんアメリカ西海岸のペブルビーチゴルフ場のあるサンタクルーズやモンテレーの海岸線も良いのだけれど。
カンヌに入ると、いわゆるコートダジュールの中心部に入ったことになる。ニースやモナコ、モンテカルロなど、季節を問わず、観光客で込み合っている。いわゆる海岸銀座通りであるが、観光設備や美術館、それに加えて立派なホテルが林立しており、楽しみにこと欠くことはない。
近郊のカーニュ・シュール・メールやグラースの田舎、そしてヴィル・フランシュ・シュール・メールやボーリューなどの小さな海岸の町などは、落ち着いたとても居心地の良いリゾートである。ヴィル・フランシュ・シュール・メールはジャン・コクトーが好んで住んだ町で、彼が20年にわたって常宿にした「ホテルウェルカム」は、こじんまりして寛げるアットホームなホテルである。ここからイタリアとの国境に接するマントンの間には、彼の作品が無数に残されている。
高台のエズ・ヴィラージュは、断崖から地中海を一望する村であり、特にシェーブル・ドールやシャトー・エザのホテルのテラスから眺める地中海は素晴らしい。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」は、ここで着想、執筆されたと聞いている。大自然の感動、生命の起源である海の偉大さの中から何かを啓示されたに違いないものと思っている。小生はこの眺望が気に入り、フィルムにおさめ、地中海を代表する風景写真として大切にしている。ユダヤ金融資本の雄でもあるロスチャイルド家の別荘もこの高台からボーリュー岬にかけて立地されている。
マントンはイタリアとの国境の町で、昔の漁村がリゾート化し、今ではヨットマンの集まる場所として世界的に有名である。各種の芸術祭なども多く開催されている。早春にはレモンの祭りがあって、町の一角には、日本の菊祭りのように、木組みの造形の表面をびっしりレモンで覆いつくした様々なモチーフが飾り立てられ、町中にレモンの爽やかな香気が満ちあふれる。祭りの期間中はレモンチェッロとか、レモンの蜂蜜、レモネードなどを町の人が観光客に振る舞って、マントンの町をアピールしている。
プロヴァンスやコートダジュール地方も自動車道が整備されていて都市間の移動ははなはだ快適である。だが、幹線から外れて内陸の細道などを走れば、昔からの落ち着いた田舎風景に出くわすし、海岸線を走れば素晴らしい南仏を満喫できるので、時間に余裕を持ちながら、小さな道をドライブするのが楽しいだろう。
地中海 太郎