<スロヴェニアとクロアチア>
トリエステの港湾都市を出ると間もなく30分前後で旧ユーゴに属したスロヴェニアの国境に到着する。2000年の新緑の頃、妻とスロヴェニア、クロアチアの市場視察に出かけたことがあった。我々はこの時、まず車でトリエステから一旦スロヴェニアに入り、そしてもう一度国境を越えて、クロアチアに入った。アドリア海沿岸のオパティアというリゾート地まではトリエステを出て、2時間ほどのドライブであった(2回の国境越えの税関審査も含めて)。
この周辺のアドリア海沿岸の風景は実に美しく、水もどこまでも澄んできれいである。物価は安く、観光地であっても、たとえば果物などを買うと、日本の10分の1ぐらいの価格でとても新鮮な美味しいものが食べられた。国全体の経済成長はまだ発展段階にあるのかも知れないが、レイカなどの市場を見学した限りでは、食料品の購入風景などを見ていると、日常の生活に困っている様子は見られない。ここでは、海に近いながら、魚の水揚げはそんなに多くない様子で、魚よりも肉を食べる人の方が多いような印象を受けた。ハムやソーセージ、肉の味が良いことに驚かされた。少なくとも食生活は豊かである。
すこし内陸に入った部分は広葉樹林が森を形成しており、岩山も多いが、森は乾燥気味で表土が流出しているところが多い。農耕地は、この後で訪れることになるスロヴェニアと比較すると、整備が未だ追いついていない様子で、土地もやせているという印象を受けた。良質のポルチーニ茸など豊富に採れるだが、ここのものはウクライナのチェルノブイリに近いためセシウムなどの放射性物質の含有度が高く、日本での輸入許可を得ることが難しい。
港湾都市レイカから同じクロアチア南端のスプリットを経て、ドヴロニクへ至る道は、アドリア海で一番美しいと言われるが、一度ドライブしてみたいと思いながら、まだ訪れていない。この地を含むギリシャのパトラスまでは、いつまでも希望を残すことになるのではないかと思っている。ただし、ドヴロニクだけは、対岸のイタリアのアンコーナあたりから、機会をつくって船で訪れてみたいと思っている。
クロアチアがユーゴから独立する際は、レイカ、ドヴロニクなどの港湾都市がまず爆撃されたと聞いている。ここに住む人々はクロアチア人で、オーストリア、ハンガリーの影響を大きく受けている。セルビアやモンテネグロなどバルカン半島の主流にある国々とは、多分毛色が違うのだろうという気がした。クロアチア、スロヴェニアがまず独立を勝ち取ったという背景には、民族的な問題で西欧の支持が得られやすかったことと、この両国が経済的にも南を大きく上回っていたということもあるだろう。古くから、オーストリア、ハンガリー帝国の影響を受けていたことや、カトリック教徒が多いことも背景になったのである。
さて、ここからは海岸線を大きく内陸に入ることになるが、我々はレイカからクロアチアの首都ザグレブを経由し、スロヴェニアのリュブリアーナに向かった。スロヴェニアの国は、ユーゴから解放された最初の国である。リュブリアーナというこぎれいな首都があり、北の方には旧ユーゴのチトー元大統領の別荘などがあるブレッド湖という、絵はがきのように美しく人気の高い場所もある。昭和天皇も宿泊されたことがあるブレッドの元大統領別荘は、今ではホテルに改装されて一般客が宿泊できる絶好の穴場になっている。空気が清浄で、景色も息をのむように美しいこのブレッドは、おすすめしたいスポットである。
スロヴェニアは美味しいワインが飲める国である。料理も一般的に洗練されており、野菜、肉、ソーセージ、ハムなど、クロアチアと同じようにたいへんに美味しく、しかも安い。イタリアに旅行した後にこの2カ国に入ったため、豪華な食事、豪華な宿泊を格安で楽しむことができた気がした。
これら旧ユーゴ諸国では、ホテルはドイツマルク建てになっており(2001年)、言葉もドイツ語がどこでも通じた。しかし英語やイタリア語も充分に通じるので旅に困ることはない。スロヴェニアの小さな町で高校生らしき女の子に道を尋ねたときも、きれいな英語で返事が返ってきた。
<ギリシャの想い出>
<ブリンディシからアドリア海を渡りギリシャのアテネへ>
アッピア街道の終点の地であるプーリア州ブリンディシから航路でギリシャのパトラスに渡ったのは1970年の初頭であるが、十字軍兵士がエルサレムの巡礼者を保護してこのブリンディシから出航した史実を思いながら、感銘したことを今でも鮮烈に覚えている。
コルフ島に沿って航行しながら、当時、歴史のことを今のようには知らなかった小生は、そこがヴェニスの海軍がトルコのイスタンブールに向かう際に最も重要な中継地点としたことは知る由もなかった。現在のアルバニアの南端沖に位置するコルフ島のヴェニス共和国時代の軍事的重要性は、決定的なほどであったらしい(塩野七生氏の「海の都の物語」に詳しい)。
ブリンディシを出航して10時間足らずで、間違いなくコルフ島沖を通過したはずである。いずれにしても真夜中で、就寝中であったに違いない。歴史を知っていれば、たとえ真夜中であっても船上から通り過ぎるコルフ島を凝視し続けたに違いないのだが。
ブリンディシを昼すぎに出た船が朝の7時頃ギリシャのパトラスに到着したと記憶している。そこからは、コリントの大地峡地帯を経て、コリント運河を越えてアテネに至るのだが、大きな外洋船ではコリント運河を運行するのは困難なため、パトラスからバスに乗り、聖書でも有名なコリント人の町コリントに着いた。早速コリント運河を訪れたが、その垂直に切り立った圧倒されるほどに深い運河は、バルカン半島南端のギリシャを二分する形となって、ペロポネソス半島との境界線を形成しており印象的であった。
歴史上に名高いオリンピアやスパルタ、ミケーネ、そしてマラソンで有名なマラトンの丘なども近くにあり、世界史上の遺跡が無数に点在する。この地域はまた、史上に名高い激戦の場所としても知られている。2500年前にはアテネとスパルタ間でペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全土に戦乱をもたらした。その後も覇権争いが絶えることなく、国土も疲弊していったのである。そのわずか50年ほど前のペルシャ戦争では、ダリウス王に対してスパルタとアテネは連合して戦い、ミレトスやサラミスの海戦でペルシャの野望をかんぷ完膚なきまで打ちのめしたはずである
その後ギリシャは東ローマ帝国の属領となり、さらにビザンチンの影響下に入り、近世まで350年近くにわたってトルコ帝国の支配下におかれたのである。現在に至るまで、そのしこりがあり、ギリシャとトルコの間では、目立たない小競り合いが続いている。このことはキプロス問題として今もなお紛争の種として残っている。
この地域は又遺跡に満ち満ちている。シュリーマンが発掘したトロイは、イスタンブールに至るマルマラ海の入口ダーダネル海峡に近いところにある。ミケーネの遺跡も、その後やはりシュリーマンによって発見されている。古代西洋史に興味を持つ人達にとっては、興味の尽きることはない土地柄である。世界最古のひとつとされるミノア文明などギリシャ文明の遺跡は、このペロポネソス半島やエーゲ海諸島の中に無数に点在していて、よほどの遺跡好きでないとうんざりするほどの量である。しかしながら、ヨーロッパの歴史というものは、ギリシャ抜きにしては考えられないのであって、その源流を知る必要があろう。
ゼウスによって人間が造られたという伝説、そして、ヘラクレスの伝説もある。シチリアのシラクーザのアテネの植民地にはアルキメデスが生まれ、幾何学ではピタゴラス、哲学ではソクラテスやプラトン、アリストテレスなど多くの偉大な学者を輩出した。近世のスペインではトレドに居住したエルグレコ(ギリシャ人の意)の活躍がある。医学などを含めてかなりの分野において、学問の始まりはギリシャ文明に由来する。西洋の教養人にとっては、最も大事な学問の基本がここにあるのである。
さて、コリントの町を離れると、快適なハイウェイを通って2時間もすればアテネに至る。途中の風景は一様で、緑のある大地に大きな石、岩があちこちに見られ、乾燥した牧草地とオリーブ畑が続くのみである。アテネの町については記述すべきことが無数にありすぎて、1冊の本でも収まりきれないくらいであるので他に譲ることとする。
さてアテネの街はシンタグマ広場(憲法広場)がアテネの王宮の前にあるが、最初にここに旅行した30年ほど前の印象では、ギリシャの人々は、偉大な歴史の重みに押しつぶされて、息も絶え絶えのような感じがあった。アテネの銀座通りといわれるような場所でさえも、ここを歩く人が言葉を悪く言えば田舎のお百姓さんのような感じで、うつむき加減で歩くその姿に意外な思いを持ったものである。1993年に3度目にここを訪れた折には、以前と違って、人々の表情も明るくなっており、町もだいぶきれいになったように思われた。
当時アテネでびっくりしたことのひとつは、ミンクのコートが他と比べて非常に安いことであった。当時20代の後半であった小生は、これを日本に持ち込めば5倍にも10倍にもなるのではないかと考え、商売を考えたほどであった。
アクロポリスの丘にはパルテノン神殿がアテネを一望に見下ろす場所に鎮座している。それらの歴史上の出来事は一切省略して、この地で楽しかったことを書くことにする。アクロポリスの丘を徒歩で石ころを避けて下れば、シンタグマ広場に至るその中腹にプラカ地区がある。ここには露天のタベルナと呼ばれる飲食店が出店を出し、深夜までギリシャ風の音楽が奏でられ、ワインを飲みながらスブラキ(串焼きの肉)などのギリシャ料理を愉しめる。もちろんこの地域にはきちんとしたレストラン、酒場もあるのだが、露天で飲食する方がギリシャ的で楽しいような気分であった。
~ 閑話休題 アテネの名ホステス、マダムミチコの思い出 ~
2度目にアテネのプラカ地区を訪れたのは1975年頃である。この時は、レバノンのベイルートを訪れての帰りであった。ベイルートを訪れた小生は高級ホテルとして知られたホテル・リヴィエラに数日滞在した。そこの最上階にはレストランミチコという和食の店があり、中近東を旅した後に日本食を食べたかった身としては、そのために、数日このホテルに投宿したのであった。終日のんびり宿泊するうちに、レストラン経営者のミチコ女史と毎日会話を交わすようになり、いろいろとその土地のことなど、情報をいただいたのである。聞くところによると、女史は、東京女子大学を卒業後、ギリシャの外交官と結婚したということで、アテネのプラカにもレストランミチコがあり、そこが本拠地であることをベイルートのレストランミチコで聞き、早速アテネまでフライトしたのだった。
このアテネのミチコには1996年頃にも立ち寄った。若夫婦が店を取り仕切っており、ミチコ女史のことを尋ねたら、「母は夕べ日本から大臣一行がみえて大使館の方々と食事をされ、その接待の為に店に出たため、本日は疲れが出て微熱があり、臥せっております」ということだった。「そうですか」と言葉を返し、寿司のカウンターに座りながら、ミチコ女史のお嬢様と話し込んだのである。しばらくすると、誰かがわざわざ寝ていたミチコ女史を起こして連れてきてくださったのには驚いた。最初10分位の間は、話をしていても思い出せない様子だったが、何かの拍子に、「ああ、あのときの」と、ついにはおぼろげに思い出したようで、非常に懐かしくお話をさせていただいた。長い間お引き留めするのもどうかと思い引き取っていただき、その後娘さんといろいろな話しをしたが、この方の結婚したお相手は大学卒業後ギリシャに立ち寄った日本の方だそうで、日本人の良い部分を感じさせる好青年であった。
またいつの日かアテネに旅した際は、何はさておいても、レストランミチコに行くだろう。ちなみにその時、マダムミチコは80歳近くであって、娘さん夫婦はどちらも40代の中頃だったように記憶している。もちろん、ギリシャを訪れる日本人観光客など極めて少ない時分からアテネに居住しており、しかも元ギリシャ外交官婦人だったわけで、年老いたりといえど、名ホステスであることは当然であろう。アテネに関係する日本人にとって知らない人はないと思われる。杵渕美智子さんという名前が本名で、残念ながら、1998年頃にお亡くなりになったと最近その報道に接した。(本書を執筆中の2001年日経新聞一面のコラム欄で)
レストランミチコはアテネが本拠地なのだが、ベイルートの店はホテルの最上階を占拠するように、規模の大きい日本食のレストランであった。これほどの立派な日本食レストランを異郷の地で良くも経営できるものだと感嘆したのであるが、後から考えると、中近東当たりの石油事業に従事する人達が、自由の国、麗しきレバノン(中東戦争の起きる前の話)に来て散財することが多く、経営が成り立ったのではないかと思ったのである。
アテネのピレウス港と言えば、かつて世界中に流行した「日曜はダメよ」のポップスで知られるが、ここからは日帰りでイギナ島やイドラ島などのエーゲ海の島々を周遊することができる。スペインのマヨルカ島やイタリアのシチリア島と比べると、格段と趣が違っていて、ギリシャらしい香りがそこはかとなく感じられる。申し合わせたように、建物は漆喰壁を白いペンキで塗り、太陽の強い光線をはね返している。エーゲ海に共通するのは、白い可愛い家が空の青さと海の青さに映えるイメージであるが、家を白く塗るのは、強い太陽の日差しが乾燥した空気を通じて地上に強烈に降り注ぐのを、すこしでも押し返すためである。窓は小さく、直射日光をなるべく内側に入れない構造になっており、外から帰ればひんやりとした空気が心地よく迎えてくれるのである。
ギリシャ第二の大都市で港湾都市であるテッサロニキへはアテネから列車で行った。正味10時間前後を要した記憶がある。アレキサンダー大王が生まれたマケドニアはここから50キロメートルほどの所にあり、歴史的な観光ポイントも極めて多いのだが、ここまでくるとあまりにも観光ポイントが多すぎて、いささか感動も薄れがちになり、ゆっくり休養が欲しくなる。人口100万近くはあるであろうテッサロニキは古くからの都のひとつであり、商業活動も盛んで、ギリシャを代表する臨海工業地帯でもある。車の交通量も一段と激しく、新旧の文明が錯綜しているようで活気のある町である。またテッサロニキはアテネやユーゴのベオグラード、トルコのイスタンブール等につながる交通の要衝である。
当時の都市国家アテネは、イタリアのターラントやシラクーザ、アグリジェント、サルデーニャのプーラなどに植民地を造り、キリスト教を分派する形でギリシャ正教会を形作ったのである。同じ頃ローマは、さらに奥深く入って、現在のルーマニアなどに植民国家を造っていった(ルーマニアとはローマ人の町の意である)。
ギリシャはエーゲ海の文明から強い影響を受けており、ギリシャに触れることは同時にエーゲ文明に触れることになる。現在のギリシャに含まれるエーゲ海の島々は3000を越えるほどの数であり、これらの中には、デロス島、ミコノス島、ロードス島、サントリーニ島など数え上げればきりがないほどである。さらには、アテネに強い影響を与えたクレタ文明で知られるクレタ島等がある。ごく一部の島をのぞいて、これらエーゲ海の島巡りはしていないので、老後にゆっくり訪れてみたいと思っている。
ギリシャのテッサロニキから憧れのイスタンブールには、列車で途中下車しながら丸1日がかりで到着した。この行程は特急でダイレクトに行っても10時間程度必要な距離である。
地中海 太郎