1928年から現在まで

もともとトリュフフェアは、1928年、当時すでに有名だったジャコモ・モッラのホテル&レストラン「サボナ」の前でぶどうの収穫後のお祝いとして行った華やかな展示マーケットが始まりでした。
翌年、そのマーケットは市とのコラボにより、ぶどう収穫祭りとは分けられ、名前も「有名なランゲのトリュフの賞つきトレードフェア」に変わりました。1930年、トリノからの列車は人であふれかえり、この催しは素晴らしい成功を収めました。そこで、これから運営委員会を立ち上げようということになりました。

最高責任者は議員のガストーネ・グエリエリ、ミラフィオリとフォンタナフレッダの伯爵、ビットリオ・エマヌエレ2世とローザ・ヴェルチェッラーナの甥、ゆえにビットリオ・エマヌエレ3世のいとこになる人物です。彼は、地元でもっとも力を持つ人間でした。そして彼のトリュフフェアのスタートでの役割は当時サボナの若い常連客であり、モッラのゴーストライターでもあったラオウル・モリナーリの60年前の記録から直接知ることが出来ます。彼の友人、ジョルダーノ・ベルティが「トリュフの王様」(alba fenice Boves 2011)という本の中に記事を載せました。インタビューに参加したモリナーリによると、1952年11月、レストラン経営者モッラが、フェアの創設にかかわる状況の詳細をアメリカ人ジャーナリスト ロバート・リテリに語りました。

1928年8月15日、3人の人間がサボナのテーブルについていました。ジョバンニ・ピコ博士、前アルバ市長、法律家でアルバの現職議員ジウリオ・チェーザレ・モレーノ、そしてガストーネ・ディ・ミラフィオーリ。夏の大雨のおかげでその年はトリュフがたくさん収穫されることが予想されました。そこでモッラはその年の秋にトリュフマーケットを開催することを思いつき、その事についてデザートを食べながら彼の著名な友人たちに語っていました。伯爵はすぐさま同意し全面協力を約束しました。

ガストーネ・ディ・ミラフィオーリは、大地主でワイン畑の所有者、1913年から議員、1934年から王国の上院議員であった人物で、県の経済局の議長でサボイ家の親族であり、当初からトリュフフェアの主要スポンサーでした。それは起業家としての第6感であったのでしょうか。トリュフフェアは彼の名前のおかげで輝きを増し、有名になったのは疑うべくもありません。これはフェアのセレモニーパーティーに参加した有名人の記録を見てもわかります。例えば、王位継承者ウンベルトが1936年に参加しています。王国の崩壊の後、「23日間」や戦争が終わった後でさえ、民主主義のアルバがフェアの習慣を取り戻すと、時の大物たちの招待状の返事はいつもいい返事でした。

はじめの何年かはサボイ家の存在や政府の存在はもてはやされていました。次官や大臣を招待する習慣は戦後すぐ再開されました。たいていは快い返事でした。ジョバンニ・ゴリアやジウリオ・アンドレオッティのような首相も参加してくれました。

楽しいサプライズや重要な就任なども時にありました。1992年テープカットとパビリオンの見学の後、アメリカ大使、ピーター・セッキアが楽しいお祭りに行きたいと言い出し、みんなでジェットコースターに乗ったことがあります。1993年、姉妹都市を締結したり、たくさんのドイツ人ツーリストが訪れたりする状況に感謝を表し、ベーブリンゲンの市長アレキサンダー・フォーゲルザング氏とイスラエルの代表アラファト率いるPLOの代表が同時に開催の宣言をしました。その頃、和平協定がなされていましたが、アルバの白トリュフのおかげでそれがアピールされました。
その当時を振り返っても、地方都市アルバのお祭りは明らかに既に国際的であったといえるでしょう。