トリュフの歴史

ピエモンテ統一前 の18世紀、ピエモンテとサボイア公国は白トリュフを有名にするための重要な役割を担っていました。
白トリュフは、よくパーティーで供されていました。18世紀の食の論文や料理本でトリュフが登場するようになりましたが、その正確な種名は当時ほとんど知られていませんでした。
「いったいトリュフというものはどの植物分類に入るのだろう、どうやって増えるのだろう」、という科学的な好奇心がトリュフの研究を進めてきました。
またトリュフを犬で探すというアイデアは当時の宮廷の外国人大使たちを惹きつけました。そして人々は、白トリュフはよその国でも育つのだろうかと思い始めました。

トリュフに対する関心を知るために、次のような記録があります。
・1723年フランスの王ルイ15世がは、父であるサボイア公国王ビットリオ・アメデオに熟練のトリュフハンターとトリュフ犬を送ってくれるよう頼みました。

・1751年、イギリスのカンバーランドの公爵でジョージ2世の息子であるウィリアム王子も同様のお願いをしたことがありました。 当時はその依頼にこたえ、カルロ・エマニュエレ3世はバンキーナ兄弟が訓練した7匹のトリュフ犬を彼に贈りました。

・トリュフは郵送もされていました。ヴィットリオ・アルフィエーリというアスティ出身の作家であり貴族でもある男性の手紙を読むとそれが分かります。ローマから妹のジウリアにしたためた手紙の中で、彼は「ちゃんと梱包されていないから、半分割れて、だめになっていたよ」とこぼしていました。そして続けて「梱包の際は、わらで動かないようしっかり包むこと。」「これまではすばらしい状態で届いていたのに・・・」と書きました。

・1814年、ルイ18世は「フランス革命以前のようにピエモンテからトリュフがまた来るだろうかね」と尋ねています。

・ジョバンニ・ベルナルド・ヴィーゴによる書籍
カナヴェーゼ(地名)の修道院長 ジョバンニ・ベルナルド・ヴィーゴはトリノ大学の教授でした。彼は1776年「Tubera terrae」というラテン語とイタリア語で書かれた短い教訓的書籍を出版しました。その中で、いつどこでトリュフが見つかるか、土地による違い、トリュフの種類、トリュフ犬の使い方、トリュフの再生についての理論、調理法、保存方法などを詳細に書いています。
ここに書かれている「トリュフの土地」は紛れもなくランゲやモンフェッラートのことでしょう。ランゲとははっきりと書かれていませんが、次のように表現されています。「ぶどうや木々に覆われているリグリアの山々の斜面、そして急流によって削られた谷のあるタナロやボルミダ。アスティのあたりから高くなっていくバッカスやケレスに愛された美しい丘。そこはたくさんの著名人を生み出した地。そして素晴らしいモンフェッラート。」同様に興味深いのはこのトリュフがもつ食の価値に対する彼の考え方です。
「トリュフを使用したすばらしい香りのたくさんの料理。トリュフなしでパーティーはこれほどにも華やかになることはなく、どんなぜいたく品もこれほどの満足感を与えないでしょう。」
ヴィーゴはトリュフを掃除するコツも教えています。「まず、泥を落とし、温水をふりかけ、小さなブラシで掃除します」
トリュフを切るために、ラズイエラという、今で言うトリュフスライサーによく似たものを使用します。刃は薄いくるみの木で挟まれています。トリュフを薄くスライスできるように作られています。一般的にはあまり知られていません。

・美食家ミシェル・ジーン伯爵による出版書
1780年、世界を駆け回る博識な美食家であるポーランドの伯爵ミシェル・ジーンは自分がピエモンテの貴族に送った、ピエモンテのトリュフ(白トリュフ、ビアンケットトリュフ、黒トリュフ)について手紙のコレクションを出版しました。
彼はそれぞれのトリュフの特徴や顕微鏡で見た様子、栽培の実験の様子を述べ、何とか白トリュフの栽培に成功したと書いています。
彼は次のようにピエモンテのトリュフを称えています。「ロンドンのリッチモンド公園で見つけたトリュフが、ピエモンテのトリュフと同じ香りだなんていう人はいるでしょうか?そんな意見ははなはだ疑問です。なぜなら私たちはヨーロッパのどこにもピエモンテ地方のトリュフと同じものにお目にかかったことはないからです。」

・トリノのヴィットリオ・ピコによる論文
1788年、トリノのヴィットリオ・ピコは街の医学大学に採用されるため、ラテン語で長い論文を書きました。その中で彼はトリュフの性質について記述し、そして分類し、それが人体に与える影響について論じています。彼はトリュフを4つに分類しました。その中にはアルバの白トリュフとして有名なTuber Magnatum もあります。(Magnatiumの語源は豊かさ、君臨すること、力強さ、です。) ピコは彼の同胞であるカルロ・ルドヴィコ・アリオーニ(ヴィットリオ・アメデオ3世の主治医)の植物学を参照して、トリュフの王様である白トリュフ(Tuber Magnatum)をこのように表現しています。「不規則な形、外側は黄色がかった灰色、デリケートな手触り、薄い白灰色の肉質、優雅な蛇色の霜降り。ところどころに赤っぽい斑点がある。秋に収穫され、かぐわしい香りと魅惑的な味。モンフェッラート、アスティ、リグリアの丘(当時のランゲの別名)で育つ。この種類のトリュフの属名を方言ではトリフォレとされ、たまにグリーズ(グレイ)と呼ばれることもある」その素晴らしい論文のおかげでピコ博士の名は彼が分類したTuber MagnatumとTuber Albidumのトリュフの学名とともに永遠のものとなりました。つまり、それぞれTuber Magnarum Pico, Tuber Albidum Picoというように、ピコ博士の名前が加えられたのです。

・菌類学者カルロ・ヴィッタディーニの研究成果
カルロ・ヴィッタディーニはロンバルディア出身の博士でキノコに関する学者でした。彼は解説書を記しています。その解説書には彼の手で描かれた65のトリュフの生態系の図が解説文付きで載っていました。65のうちの50は新種でした。彼は沢山のトリュフの種に名前をつけました。その9つのうち6つはイタリアで収穫され売られることが許可されています。Tuber Borchii(Tuber Albidum Picoの別名)のほかには、Tuber Melanosporum、Aestivum Vitt. 、 Tuber Brumale Vitt. 、 Tuber Macrosporum Vitt. 、Tuber Mesentericum Vitt. の5種類です。1890年代にはフランス人のガスパール・アドルフ(1813-1901)とルネ・ジョセフ、 Jジャスティン・フェリー(1845-1924)によってTuber Unicatum ChatinとTuber Brumale var. Moscatum Ferryも加えられました。

・書籍「味覚の生理学」での記述
1825年パリで出版された「味覚の生理学」の中で美食家の行政官、ジーン・アンテルメ・ブリア・サバランは一章を丸ごとトリュフに使いました。トリュフの消費量は18世紀に比べ大きなブームになっていました。「トリュフの出てこない食事なんて見たことが無い」と彼は書きました。消化性と色々な説のある催淫効果について長々論じた後、彼はこう締めくくります。「トリュフは催淫効果が実証されていませんが、時に女性を優しい気持ちにさせ、また男性を恋に落とします。」続けて「白トリュフはピエモンテで見つけることが出来ます。そのトリュフはすばらしいものです。かすかなニンニク味、それはその価値をまったく損なうことなく、むしろ後味の悪さを消すのです」。

・シェフによる料理専門書に記されたトリュフ
19世紀もっとも有名なピエモンテのシェフはビエッラ出身のジョバンニ・ヴィアラルディ(1804-1872)でした。カルロ・アルベルトとヴィットリオ・エマヌエール2世のサボイア公国で、はじめはアシスタントシェフ、その後ヘッドシェフになった人物です。料理の専門書を出した後、1863年、「中産階級の人のための簡単で安く出来る料理」を書き、一躍有名人となりました。その中に相当数のトリュフの料理を紹介しています。白トリュフも黒トリュフも良く使われていて、当時トリュフが一般的によく使われていたことを物語っています。
白トリュフは卵料理、リゾット、ポレンタ、鶏肉、ギニー鳥、きじなどに大量に使われていました。ソースの中に使用したりパイのフィリングに使ったり、薄くスライスしたり、時に焼いたりと、今日の利用法とは相容れないものです。明らかにその香りと味を台無しにしているように思えます。